2014年4月30日水曜日
終物語(下)
とりあえず、僕は正義を追求する話が大好きだ。この歳になってまで何をそんなことをと思うかもしれない。そんなの無いに決まっている。正義なんてない。
しかし、僕は人の正義に憧れる。間違っていても良い。治せばいい。治そうとすればいい。「直す」では何か違う。間違いを治そうとする人の行動が大好きだ。無かったことにせず、過去の自分を否定せずに、更生する。更に生まれる。転生して生まれ変わるのではなく、脱皮するかのように、成長する。この物語シリーズに惹かれる理由はそこなのではないかと思う。
だから、正義を追求しようとする人は読んでみても良いのじゃないかと、やはり思うのである。むしろ読んでほしい。雁字搦めになる前の、高校生という発展途上の、未だ無垢で純粋な少年たちの冒険譚がこの物語シリーズには描かれている。間違いと言われ続けてきた人も、間違いを犯しはしなかったと思い込んでいる人も、ぜひ正しいことをしようとする契機にでもなればと思う。
以下、僕は文中の一文から延々と本筋から逸れていくけど、とりあえず本当の正義とは何ぞや、青春とは何ぞやって話を書いている。で、僕は阿良々木君に同調する。そんな流れだ。
さて、青春とは何だろうか。皆で酒を飲んでバカ騒ぎをすることだろうか。部活に入って日や練習に励むことだろうか。それとも、アルバイトばかりの労働生活だろうか。それとも勉強漬けのガリ勉とさえ揶揄される毎日だろうか。
どれも。今の僕ならどれも青春だと認められる。僕が認めてどうにかなるものでもなく、誰かが得するものでもないけれど、少なくとも否定しない。批判しない。非難しない。それぞれの青春だったのだろうと今なら思える。そうやって他人を肯定もせず、否定もせず「個人」なのだと認識することで、僕は恨みとか不平不満といったものからいくらか解放された。
物語シリーズが教えてくれるのは、正しいと信じることを追い求め、成長し、青春は終わるということだ。そして、大人になる。 野球にかけた青春も、カルタにかけた青春も、堕落にかけた青春も。すべてが各々の信じた正しさであり、全力だった。それが何の役にも立たない間違いだったとしても、走り抜けることそのものが青春だった。
さて、全く話は飛ぶが、文中からの引用。
「正しいことをするのと、間違いを正すことは違う」かどうかの、正すことや正しいことと糺すことやらの紛らわしくも難しい議論の中で、八九時は言う。
「正しいことをしようとするよりも、そういう人の言動の揚げ足を取って、非難するだけのサイドに、人は走りがちというようなことですか?」
阿良々木暦は答える。
「そこで肝要になってくるのは『間違いを正す』という行為は人を、『正しい行為をしている』気分にさせてくれるということだ。」
文中のこの言葉でハッとしたのが、ネットの所謂、論破厨。議論でもない矛盾を突き重ね勝ち誇ることを無上の喜びにでもするかのような彼らがいる。メディアを見れば、犯罪者を社会的に、つまり多数決により断罪しようとする記者がいる。そうして彼らは、間違いを正すという行為を正しい行為だとでも言わんばかりに人々を巻き込む。自ら巻き込まれ続けて行く。人を不幸せにしながら、優越感をかじり続けている。
彼らの行いは称賛されるべきものなのだろうか。勿論、間違いはあってはならないし、ミスも無い方がいい。けれど、彼らのそれが正しい行為かというと、疑問を呈さずにはいられない。
なお、間違いは万人の定規で以て「直す」のではなく、欠陥や脆弱性や過失を「治す」ことであるはずだと僕は考える。だから、僕はあえて「正しいことをしている気分になってしまった間違いを正すという行為」=「直す」として、「本当に正しいことをする」=「治す」としてこの場で使いたい。
さて、件の論破厨やマスコミも最初は、恐らく「間違いを正そう」=「治そう」としていたはずだ。エドワード・マローがマッカーシーに対峙した時のように。しかし、いつのまにかそれは、数々の歴史と実績を経て「正しい行為をしている」=「直して」いる気にしてしまった。
「間違いを治す」というのは、もっとニュートラルで理論的で、いうなれば絶対に対する挑戦であるはずだ。もっと換言すれば非合理、不自然の是正だ。「治す」ことは優越に浸るものでなく、真理を究明しようとする姿勢と、歪みに対する予防であり、ベクトルは一方向にしか向かない。「治癒」という原状回復を目指す言葉通りに「治す」のである。
しかし、「間違いを直す」は、利己的で理想追求的で、多様性に富んだ相対に対する挑戦であるはずだ。標的、というよりもゴールが違う。「直す」はそれぞれが持つ正しさを信じ進むことで、ベクトルは多方向へ向き、むしろ歪みも引き起こすものであるはずだ。
戦争を例えにすればわかりやすい。経済的にも人道的にも正しくないという認識のある戦争を誰もが否定できる。けれど、当事者になれば、命を守っている兵士たちを間違いだとは言い切れない。生き残りたいとか、もっと良い生活をしたいとか、そういう色々な方向に向いたベクトルが戦場には存在して、それぞれが其々にとっての「正しいこと」をしている、「間違いを直して」いる。それでも戦争は間違いだと言い切れるのは、不自然であり、非合理であり、多くにとって不条理だからだ。結果として、戦死者と焦土しか残らない。そうして「間違いを治す」ことを志してきたのが歴史であったのじゃなかろうか。
マスコミや論破厨はもはや、「直す」と「治す」を混同している。大義の無い自身の優越感を優先して「直す」ことにいそしみ、いたずらに感情を逆なでして、煽り、「間違いを治す」ことを目的とせずに彷徨っている。僕が看過できないのはその点だ。誰のためでもない利己的な「直す」を他人に試み、優越感のタネとして他人を利用しているという点が僕にはどうも理解できないし、間違いだと指摘したいのだ。理論や声の大きさという傘を、問題と言う名の降る雨を防ぐために使うのではなく、鈍器として積極的に他人を殴りつける道具として使うその姿勢が、態度が間違いなのではないかと言いたいのだ。
勿論、理論武装という装備そのものを否定するのではない。それは宗教や哲学にも似た個人のアイデンティティたりえるもので、あって然るべき存在の一つだ。けれども、武装という名の通り、それは兵器たりえて、人を傷つける可能性のあるモノだということをわすれないで欲しいということ。しかも、それを私利私欲の為に使うということを。
そういった煽るような物言いや利己的な使い方が、僕らが政治に飽き飽きしているように、学問を無関心にさせてしまう原因ではないかという可能性を考えてもらいたいだけなのだ。 それ故に、こういった暴走や勘違い、誤りを正さなければならないというのが僕のスタンスだ。
これは、金持ちのいうことが全て正しいのか、多数決が民意なのかというような話に近いレベルで話の俎上に上げたいというのが僕の意図である。「正しいには正しいんだけど…」という気持ちから起こったものだ。理論だろうが金だろうが権力だろうが、 はたまた常識であろうが、使う人間によって毒にも薬にもなる。しかし、毒はあるべきではないし、必要だとしても人間に使われるべきではない。多くが薬になれば、治らない病はないのではないかというのが僕の思いであり、ここまで書くに至った動機だ。
これは誰にでも起きることである。正義さえ誤解する、人間の性に近いものでさえある。だから、それゆえに誰でもその間違いを起こす可能性があることを指摘したい。目につきやすい人の間違いだからこそ、錯覚し、目的を取り違え、暴力的なまでの「直す」を強要するようになってしまう。今一度、間違いを正すとはどういう意味なのかを考えてほしい。誰の為なのか、何のためなのか。そうしてその勘違いが人を苦しめていないことを、暴力になっていないことを考えるべきだと切に願う。
そして、最終的に話を「青春」に戻すと、恐らく、多くの人にとっては、部活で培ったり、遊び呆けたりした経験は実社会で役に立たないかもしれない。動機としては有用だけれども、実用としては何の役にも立たない。(もちろん同じくらいに役に立つ人もいるけれど。)多くの甲子園球児もすべてがプロになるわけでもなく、サラリーマンとして働いたりするわけだ。プロになっても失墜する人間もいる。例としてあげてるに過ぎないが、野球のスキルや、肩や、走力が経済ゲームの中で何かの役に立つわけではないのである。日本という国の多くの高校生や大学生が「部活」という至上命題をどこかに掲げ、全力で青春だと言い張ったところで社会はそこで培ったスキルを受け入れるとは限らない。むしろ、マイノリティな青春を過ごしたならば、排斥される可能性もある。
では、どうして僕らは青年期の貴重な時間を部活やら何やらにささげるのか。それが僕らにとって正しいと信じた物だからだ。それを全力で遂行することこそ、青春であるのだと僕は思わされる。間違っているかどうかなんて関係なく、正しいと思ったモノに専心する。それこそ青春なのだろうと僕は思う。それ自体は良い。自分によく頑張ったと拍手を送ればいい。いい思い出にでもすればいい。
そうして出会う、第一関門が就活というモノなのだと思う。現に僕の青春と思しきものは多く否定されている。同じように努力したと思っていても、それは勘違いで、低俗で、つまらないものなのだと。それを社会の門前で「直される」。お前の青春は間違いだ、と突き付けられる。何というか就活とはそういう場なのではないかな、と思うのである。そして、社会に出て自ら「治していく」。青春のあとにはそういう道が多くの者にとって用意されているのだろうと思うのが、昨今の僕である。そしてそれが今の日本で言う青春の終わりと大人になること、なのかもしれない。
残念ながら採用担当も人間で、理解できないものはできないし、すごいと思えないものはすごくない。どんなに頑張っても報われない。結局、採用担当の人間性のようなもので、それぞれの青春は淘汰される。
お金に興味を向いたものはラッキーだし、学問に興味を向けた物は幸いだ。けれど、万人がそうではなく、現行の大学や高校制度ではむしろ少数派なのかもしれない。上には上が常にいる。しかし、自分より上の者が常に受け入れられるともまた限らない。飲んだくれがより上の偏差値の人間を蹴落として進めるのかもしれない。ラグビーにかけた練習時間の数だけ人の心を引き付けるものでもないし、海外に行った国の数だけその人の魅力とは言い難い。しない人間もいるだろうが、できない人間だっている。練習時間だけを評価する人間もいれば、結果だけを評価する人間もいる。その時々に描いた、喋った言葉がその担当者と合致するか否か。多くの学生にとっては、本当に運と縁の世界だと思う。
それでも何度も落選しました、となる。だからって、過去の自分を責めるのはお勧めしない。というかできない。過去は代えられないのだから。今から頑張ってもエントリーシートに書ける過去は変わらない。そんなもので自分を責めたところで無駄に暗くなるだけだ。悲愴感が増すだけだ。だから、胸を張って自分のしてきたことを言えばいい。そこはポジティブに思うべきだ。
故に何よりもすべきは、今、全力で何かに打ち込め。それに限るのだと思う。恋愛中毒になっても良いし、飲んだくれても良い、汗水たらしてサッカーばかりしていても良いし、音楽と心中しても良い。ただし、ただ何となく流されない青春を送るべきだと思う。やりたいと思ったことを全力で挑むこと。それでいいと思う。そうして、まぁ就活失敗したら死ねるでしょう?勿論、死にませんが(笑)。意地汚い気もするけれど、その過去の幸せを胸に生きて行くのだってかまわない。それで幸せになれるのならば良いだろう。自分だけにしかやれないことをやってくればいい。僕は心からそう思うし、それが評価される世界であったらな、と思うわけである。それができて良かったか?と聞かれ良かった、と答えられるだけ人生儲けもんだ。
それで、正しいものを見つけられたのならば、正しいと信じ続けて行動できたのなら、それは誰にも負けない青春だと言っても良いだろう。本当に正しいことはあなたが決めるべきなのだから。大人になったら正しいことは追い求められないのかもしれないから。
「本当に正しいこと」はいっぱいある。本当の正義、例えば権力者の命令だとか、例えば弱肉強食的思想を持つ「ウォール街」的資産家だとか。それは多くの人が従う正義であり、多くが信用というものを寄せているお金を根源にする正義であり、多くの民意により選ばれた正義だったりする。
けれど、僕はそんなものが、たとえ正しくても詰まらないと思わざるを得ない。詰まりすぎていて、何も詰められない。余地がない。僕はどこまでも自己中心的なので、僕の手にかかってないものは悔しく思ってしまう。詰めたい。煮詰めたい、見つめていたい。だから、僕の中で問題だと思ったものは看過できない。
たとえ、金持ちや学者や政治家先生だからって、許されることとそうでないことはあるはずだ。それが、理論的に正しいのだとしても、僕という人間的に正しくないと思ったら、やはり対抗したくなってしまう。僕は未だに青春をしているんだろうか。いつ大人になるのだろうか。もうなれない気さえする。これが厨二病を拗らせたということなのだろう。
それでも、理論的に、実用的に正しくとも、万人が正しいと思えない遣る瀬無いものというのがあるのだ。人の生き死にとか、ブラック企業云々とか、原発云々とか。そういうものがひしめき合って、今、ネットはカオスになっている気がする。暗黙の了解で知れたルールがあったとしても、それを知らない若者が犠牲になる。なんというか、そういうのが見てられないのだ。
僕の考えに同調して欲しいと思わないから、これはあくまで僕の意見である。そして、僕の思想の根幹のようなものだ。だからというか、それ故になのだが僕はモテないし彼女もいない。どこまでも自己中心的な考えだけれど、僕は哲学を持っている人間が好きで、真剣な人間が好きだ。その外見には興味がない。無いというよりも、それはあくまで外見なのであって本質ではない。それゆえにとても面白くない。だから、自分にも他人にもそれを大して要求しない。僕はそれでいいとおもうのだ。
第一印象が9割だなんていうけれど、それはあくまで第一印象であって、端的な何かでしかない。そんな外見を弄ったところで、それは誰にでも変えられる何かで、誰にでも代えられる何かでしかない。人為的で、恣意的な変化だ。それは近道かもしれなくて、最善解で一般論なのかもしれないけれど、それ以上何物も詰まらない、つまらないものなんだと思ってしまう。エビに捕らわれた昨今の女子を見て、僕はなんとも言えない気分になる。
僕はたとえプロのコーディネーターが僕のダサい服をアレンジし、プロのヘアスタイリストが僕の残バラ髪をアレンジし、整形手術を繰り返し超絶イケメンになったところで、僕の内面は変わらない。気分は違うかもしれないけれど、なんというか僕の過去に嘘をつくような引け目がある。もしもそれで他人の目が変わったのならば、それは僕の努力でもなくなんでもなく、他人の努力だ。才能だ。そんなもので変われても、僕は悔しく思う。負け惜しみだろう。僻みだろう。けれども、僕が過去の僕を否定したら、それこそ何だか過去の自分に申し訳なくなってくる。涙もして、努力もして、苦しみもして、笑いもした僕を裏切る行為だ。現在と地続きの過去の否定は、現在の僕の否定に他ならないのではないだろうか。
ただし、それにいつまでも拘泥しているわけにもいかない。というよりもできない。間違いだと知ってしまったからだ。少なくとも非合理的で、不自然な行動や言動があることは認識している。流れに逆らうつもりで現状維持だけをしてしまっていた僕がいる。それはやはり、もし僕が流れに逆らおうという気持ちで動いていたのならば、留まっていたに過ぎない。決して、逆らっていたのではない。 目的を達成できていない自分は反省しなければならない。
僕はこんなこと言う馬鹿だから、馬鹿が好きだ。真剣に何かを語れる誰かが好きだ。可愛いとかカッコイイとかどうでもいい。僕にとって第一印象は第二だ。三四ぐらいになって、初めて僕はその人を嫌いにも好きにもなれる気がする。だからこそ、物語シリーズの阿良々木君が大好きだと思う。馬鹿だから。こんな馬鹿になりたい。むしろバカだったかもしれない。それでも愛されているのは、なんというかそういうことなんだろうなっていうのが、羨ましいというかなんというか、僕とは決定的に違うところで、あこがれるところである。
話はとことん逸れたが、僕が終物語下巻をよんでまず思うことでした。
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