2014年5月6日火曜日

もう何度目かのもう一度

 (※所要時間5分強)
 




 数か月ぶりに、僕から誘ってみた。ほんの少し足を伸ばして、明日星でも見に行かないかと誘ってみた。天体望遠鏡があるわけでもないけれど、星を見に行こうと。レジャーシートと温かい飲み物類、その他諸々をリュックに詰め、僕らは翌日ダム湖の畔に行くこととなった。
 小さな食器棚に些細な趣味として積まれている、一番上等な紅茶の缶。お勧めのコーヒー豆はミルで挽き、M社のココアを小分けして、ペットボトルの天然水を沸かした。マグは二つ。おかげでリュックは満杯。
 「たまにはいいね」と僕の誘いを快諾した彼女は、当日待ち合わせの駅に手ぶらでやってきた。
 「手ぶらかよ。」
 口にこそ出さないけれど、僕の気合の入れように比べれば、コンビニに行ってくるくらいの彼女を見て、僕は少し溜息をついた。相変わらずこういうところは強かで、やや腹が立つ。僕だけが楽しみにしていて、無理やり誘ったような、そんな気分になる。僕がそんな気持ちになる必要は全くないのだけれど。しかしそれが、寂しいに似た感情だと気付くと、自らを嘲るようにその可能性を排除する。それはありえない、あるはずがないのだ。というよりも、こいつは単純に人に甘えすぎなのであり、相変わらずだ、呆れることにした。
 ド田舎同然の道を歩き、やや汗ばみながら、僕らが何をしにこの湖、もとい貯水池に向かっているかは定かではない。昼間の陽気とは裏腹に、肌寒い風が吹く戌の刻。天体望遠鏡も持ってないから、天体観測なんかではない。無線が目当てでもない。当然デートでもない。もしこれがデートならば、今彼女が思いを寄せているかもしれない人に対し、裏切りを強制してるようなものだから、デートでは断じてない。それでも、友達同士の遊びとも言い難い。こんな夜に、あまり人の気配のないところで、二人きりだなんて。どこからどう見ても、僕らはカップルだろう。
 でも、それは僕らを表す言葉としてはやはり明らかに不適切だ。もう終わった話で、結末を迎えた話で、もう起こることの無い話。何故なら、僕らは友達を経て、友達以上恋人未満を駆け足で置き去りにし、恋人になったその日から愛を分かち、1年を経て袂を別った。若かりし頃の恋の焦燥感に煽られ、社会の必要性に迫られ、心身を擦り減らした結果。僕は波に。浪に呑まれた。"浮き"を残して、海の藻屑となって揺られ、漂い、自然と離れた。そうして僕らは恋人ではなくなった。そういう関係だ。
  それでも僕らはこうして二人でここに来た。一般法則に、常識に照らし合わせれば、僕らは気不味さと背徳感を噛みながら顔を合わせるべきなのだろう。また誰かと恋を始めるにあたって、僕らは互いの存在を障害だとさえ思う。けれど、失った理性と消えない記憶が僕に嘘さえつかして、何食わぬ顔をさせた。そして、彼女もまた何食わぬ笑顔で僕に駆け寄ったのだった。彼女の心は読めない。後ろめたい気持ちを持ちながら、僕も笑顔で振る舞う。
 
 赤い蛇のようにうねる鉄骨と、白い塔に見下されるように、草むらにレジャーシートを2枚並べ、僕らは共に座った。波の音が微かに聞こえ、耳が風を切る。久しぶり、などとまたしても他愛ない挨拶をしたり、近況を愚痴ったり、意味もなく疲れたと溜息をつく。ここまでの道のりにではなく、今の現状にただ憂う。似たり寄ったりでろくなことが無いらしい彼女も、あはは、と投げ遣りに笑い、迷子のように恥じらう。
 話ながら僕は飲み物を用意して、シートの上に広げていく。コーヒー、紅茶、ココア。全部拡げて。それを見て呆れたように、困ったように紅茶を選ぶ彼女。
 「なんでこんなに用意してるの」
 と、申し訳なさ三分の一と(多分その程度)、呆れ三分の二で聞いてきたから、僕は「趣味だよ、趣味」と答えて、マグに茶葉とお湯を注ぐ。
 「このマグは優れもので、コーヒーとか紅茶をポットなしで淹れられるんだよ」
 と、僕は新品同様のそのマグを、さも愛用品のように紹介する。独り暮らしのくせに、なんで二個持ってるんだよと自身に突っ込みをいれながら、自慢する。彼女は初見だったようで、普通に驚いていた。普通に、である。少し残念だった。なかなかなアイデア商品だと思うのだがなぁ。
 何の為にかも分からない乾杯を促して、美味しいを連呼した。何度も言って、何度も唸った。何度も柔らかい溜息を吐き出し、コーヒーの香りを吸い込んたま。会話が続かないのでもないけれど、やや肌寒いを夜空の下で飲む温かいコーヒーは(彼女は紅茶だが)、体を芯から温めて、まるで風呂にでも浸かっているような安堵感をもたらした。だから、言葉が出なくなった。美味しいとか、やっぱりいいねとか、そんな言葉を投げて同意が繰り返されるだけの会話とも言えない会話をして、僕らは風の音を聞くだけになった。夜を見るだけになり、土の臭いと花の香を嗅ぐだけになった。ひたすら暗闇なのに、あたりに花も咲いてないのに。
 電車が重い足を引きずるように闇の中を歩み、その音が静けさをより際立たせる。
 その沈黙が、僕には懐かしく思えて、愛しく思えた。僕らが恋人だったころは、僕は本当に緊張してたようで、いいところを見せなくてはならないようで、ろくに喋れなかった。その関係になる前は、何ら問題なく話せていたのに、僕らは、少なくとも僕は彼女の恋人に徹しようとした。義務のように、夢か理想のように。その時の気持ちは思い出せないし、あまり思い出したくもないけれど、空気は、隣に彼女がいたことだけは思い出せる。かつて顔を埋めたその髪の臭いが、風に乗って舞っているから。この肌寒い気温も、旧知の間柄のようにさえ思えた。
 
 その後、僕らは気づけばひたすら話をしていた。もはや何のはなしから始まったか分からないほど、会話はあちこちに飛んでいった。さっきまでの沈黙が嘘だったように、次々と話題が出てきた。というよりも、彼女がけっこう話好きなので、止まることを知らなかった。食べ物の話、友人の話。今の話、 過去の話、未来の話。説教めいた僕と、やや頼りない彼女。溜息も弾む声も行き交い、車も人も行き交う。おそらく僕らの前を結構な人数が通っただろう。会社帰りのサラリーマン、ランナー、若い恋人達。しかし、そんな往来にも気を散らされることなく、ひたすらに話は続いた。風に紛れてざわめいていた。芝に埋もれてさざめいた。僕が思い出せるその時の様子は、僅かに瞬く星と半月。それと、彼女の服ぐらいだった。会話は時間と空腹を満たしたにすぎないものだった。
 視界に入り込む車のライトの数も、町の灯りも徐々に減ったことに気づいて、再び飲み物が美味いなどととりとめともない事を言い出した時に、ふと腕時計を見るとすでに10時頃だった。僕らは驚き、少し慌てる。あまりに時間は早く刻まれていて、僕らは明日に乗り遅れるのかもしれないと思った。一日が、あと少しで幕を下ろす。かれこれ二時間話していたことに僕らは笑いあった。笑いあって、声が響き、このただっぴろい景色の中で、僕らは今二人なのだと気付いた。二人きりで草むらに寝転がって、空を見上げる二人。僕と彼女しかいない、この状況を改めて考えた。
 僕らが恋中だった昔でさえこんな状況はなかった。こんな楽しい時間は無かった。お金も使わずに、ただ寝転んでいるだけなのに、たった今この時が愛しくて、暖かった。僕らは成長したはずなのに、お金も稼ぎ、一人暮らしさえ始めたのに。アルコールさえ飲めるようになったのに。子供の時にゼロから楽しさを生み出したような、楽しさが漂っていた。
頬を掠める風はなお冷たくなったのだろうか。火照りを、動悸を感じて、息苦しくなった。かつて手放してしまった大切な何かが目の前にあるのに、手に入らないもどかしさが突然現れた。いつまでもこの時が続けば良いのに。そんな子どもじみた言葉を見つけてしまった。言わなくとも、溢れ出そうだった。
 それは、僕の独り善がりなのだろうか。僕だけの思いなのだろうか。その確証が欲しくて、僕は言ってしまった。
 「僕たちは何者なんだろうな」
  それは、聞けば漫画のように現実感の無いセリフだった。けれど、僕は今の僕等に終止符を打ちたくて、はっきりさせたくて、聞いてしまった。それでも彼女は意図を汲んでくれたようだった。
 「なんでもいいんじゃないかな」
 笑って、何を今更というふうに、彼女は言葉を放った。
 その言葉を聞いて、大きな喜びも悲しみもなかった。ただ驚き、たった今僕らが共有した幸せな時間の言い訳のようで、真理のようで それ以上の言葉を探る気持ちにはなれなかった。
 これ以上、今の僕らに言葉を当てはめたら、この瞬間を失ってしまうような気がして怖くなったのだと思う。無かったことにしてしまうようで、できなかったのだろう。
 今の僕に下心をつけてしまえば、恋になるのかもしれない。彼女に再び恋をしているとすることができるのかもしれない。でもそれは、これ以上を求めているようで、つまり比較して今が劣っているようで、酷く悲しくなる。心底、楽しかったと言える時間を、恋の名の下に否定するのは憚られた。 それほどに恋とは、愛とはすごいものなのか。僕はその概念にすがってまで、今の幸せを無碍にしたくはない。恋などに、僕が今感じた幸せを定義づけさせまいと思った。
 だから、そう、これは恋じゃない。衝動的な本能が、安定をもとめて欲情しているだけなのだろう。安易な答えに飛びつけば、失敗する。答えが出ないことを解決しようとして、多くの物を失うことはできない。それを失ってまで、我を通そうとは思わない。得た事を一度知ってしまったら、それをなくしても着丈でいられるほど僕は強くもない。
 多分、世界は広いのだから、僕と同じ気持ちの人間もいるのかもしれない。もっとねじ曲がった、または不思議な関係というものもあるだろう。
 僕と彼女の間には、それらと同様に誰の言葉にもできない関係がある。特別な関係が。友達でなくなって、肌さえも重ねた後に、恋人でもなくなった僕らはどこに落ち着いたのだろう。かつてゼロ距離に近づいた僕らは、心臓まであと一歩というところで、肌や骨が邪魔をして、心を通わせられなかった。内蔵の温かさも、恥じらう声も、心以外は何でも知ってしまった、友達。本当にそれが友達と呼べるのだろうか。同性に同じことが適用できないが故に、僕は友達という言葉じゃ収まりがつかないと思ってしまう。一度もっと奥深くで繋がってしまった故に、後戻りができなくなってしまった。あの尊い瞬間を手放せるほど僕は強くない。互いの秘密を蹂躙し、領域に踏み込めた心強さを捨てられるほど、やはり僕は満たされてはいない。
  そんな僕の逡巡を気にもせず、あくびするように伸びを彼女は言うのだった。穏やかに、しっとりと言葉にするのだった。
 「平和だね。」
 僕は頷く。同意する。平和という言葉の裏にある、平和じゃないを思い浮かべて、心から同意する。生き急ぐこともなく、死に急ぐこともなく、悠々と僕らだけの時間が過ぎていく今は、平和と呼ぶに相応しいだろう。堤防の、湖の反対側にきらめく街中に目をやる。街頭が散在し、ビルが時たま立つ、僕の街を眺める。あくせく働く居酒屋や飲食店の従業員が働いているのだろう。疲れ切った顔を浮かべながら、誰もいない家に帰る中年男性。酔いつぶれて、地面に寝そべる若者。愛想笑いに心を擦り減らす人々。そんな人たちが街の灯りに紛れているのを想像すると、今がいかに平和で、平穏かを思う。誰の意志にも干渉されず、僕らは自身の選択を経てここにいる。
 空のその先には寝ることもままならず、困窮にあえいでいる人もいるのだろう。憎み合って殺し合う人たちがいるのだろう。 誰にも関わらず、殻にこもっている人もいるのだろう。平和とは程遠い、和も平も、穏やかさもない日々があるのだろう。
 対して今の僕らは、端切れの雲と隙間から覗く星以外に見るものもなく。風の音と、時折の車や電車の音以外に聞くものもなく。あと一歩で手の届きそうな互い以外に触れるものも無い。全てが自然と流れて、何の偽りも理由もなくただそこにある。不自然の存在しない今がある。これほど平和な時があるだろうか。あったとしても、多分それは、隣にいるのが彼女じゃなきゃ成立しない時ような気がした。共にいることが嬉しくて、沈黙さえも良いと思える僕と彼女じゃなくては。
 ダメなのだろう。
 大きく息を吸い込んで、見あたらぬ花の香りに安らぎを感じた。
 
 夜も深くなり、僕らは湖を後にした。用意したお湯はほぼなくなり、軽くなったリュック。風もさらに冷たく感じる。電車の音もしなくなった。そんな闇の中、頬を緩ませ僕らは歩いた。僕らの事、これからの事、色々話ながら僕らは歩いた。僕の葛藤を、逡巡を、結論を、自分の考えを全て打ち上げ、彼女はどう思っているのかを聞いてみた。同意と笑顔が返ってくる。
 勿論、それが本当に本当とは限らないのかもしれない。それでも、僕は信じることができた。もう、他人をやめ、友人をやめ、恋人をも辞めてまで続いている関係を経て、失うものの無い僕は、彼女を信じてもリスクは無い。仮に何か嘘をつかれてるのだとしても、その時は、一般論として、気まずさのようなものを感じるだけでいい。常識に戻ればいい。不通から逸脱した僕等が、正常に戻るだけだ。
 彼女の家の最寄駅は実は、湖からもっとも近い駅の隣駅なので、僕らはそこまで歩いた。一駅分だが、一時間近く歩いてもつかない距離なのだが、あっという間に時は過ぎ、彼女の家に着いた。
 「今日は楽しかったよ、またね。」
さようならじゃなくて、またね、 と彼女は言う。まさか、そんな風に言われるとは予想だにしなかった。もう一度、僕らは続いていくのだとわかった。それだけで僕は安心出来る。
 僕も「また今度」と返し、手を振って彼女の家を離れる。愛しているの代わりに、一回きりの約束をした。僕らがこの次も続く約束をした。それは愛してるとは言えない。手探りで可能性をつなぎ留め、明日さえも僕を覚えていて、思い出して欲しいだけだった。
 寂しい夜道の供に、僕はイヤホンを耳に挿して、プレーヤーを起動した。
"will you still love me tomorrow"
今の僕にはお誂え向きなのかもしれない曲が流れだす。キャロルの柔らかい木のような声。僕らの間は、愛なんてそんなやわなもんじゃない。多分一生答えは出ないけど、それでも探し出したくなる正しさなんだろう。僕と彼女の正しき縁。言葉にも絵にもしない縁。ただ、僕は"tomorrow"の部分だけを唄って、夜道を歩きだす。

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あとがき。
 お読みい頂きありがとうございます。まぁ、いつも通りフィクションですが、原田郁子さんの唄う「流れ星」が良すぎて、どういう二人なんだろうと思い、拡大解釈を加えて書いてみたものです。というか物語シリーズの一節を自分なりに解釈したかっただけなのかもしれません。とにかく、僕は地元が好きで、ピクニックが好きで、そんな人を自分に重ね書きたかっただけでしょう。
 コメントあれば頂けると幸いです。