2014年9月13日土曜日

嫌われる勇気~自己啓発の源流「アドラー」の教え~

 当該本を読みましたよ。
 読後感は、そんなものか、でした。
知ったかぶりの見栄とかそんなものではなく、どこかで分かっていたようなそんな気がしたのです。
 僕が今まで書いてきた、読んできたもの、例えば西尾維新の物語シリーズや高屋奈月のフルーツバスケット、駿の千と千尋の神隠し、カーヴァーのa small good thing、村上春樹の指向性などなど、そういったものがこのアドラー心理学に収斂していきました。
 勿論読んで反省する点も多くあります。身勝手であったり、劣等感が強かったり。
 それでも、限りなく私のたどり着いたに近い物があります。

http://tu-fu.blogspot.jp/2014/01/blog-post_8.html 千と千尋の神隠し
http://tu-fu.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9.html a small good thing
http://tu-fu.blogspot.jp/2014/03/blog-post.html 終物語(中)
http://tu-fu.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html 終物語(下)

書いてきたものはまぁ、上を見てください。

 しかし、アドラー心理学には大きな欠陥があると思わざるを得ません。
何故なら、
 第一に、世界の全員がこの価値観の下に生きていなければ意味がないということ。
 第二に、それ故に孤独を増長させるという点です。
 一点目に関しては、この思考法は非常に高度な理性を要求します。

「アドラー心理学を本当に理解して、生き方まで変わるようになるのは『それまで生きてきた年数の半分が必要になる』とさえ言われています。」

 と、当該本でも書いています。事実そうでしょう。
それだけ、経験的にも理性的にも難解な思考法だと思います。
ですから、個人がこの価値観を持っただけで、誰かに受け入れらるというわけではないのです。
世界が変わるわけではないのです。(そういう趣旨です)
 ですから、現実社会にすぐさま適応しても誰もついてこれないので、空回りするだけに過ぎません。
 そこを気を付けずに生半可に実践すると心を折られる可能性高いと思います。
 あくまで参考程度にすべきでしょう。水面下でそう思っているだけでええのです。

 第二に、人から嫌われる勇気、私は私、他人は他人というスタンスを肯定的に見れる価値観です。
ですから、誰かに必要とされなきゃいけない場面では全く以て意味がありません。
例えば就活なんか最たるものでしょう。
この価値観を持って就活に挑むと、間違いなく死にます。
いや、実生活全体にも言えるかもしれません。
「誰かに必要とされることが評価される社会」に生きる以上、この価値観は独善でしかありません。
ニーズに対してアプローチするマーケットインの考え方がメインの一般からはかなり逸脱します。
 他人の事なんか考えなくていい、とこの本は言ってるわけではありませんが、そのドライな線引きはやはり大多数に好まれるものではないのです。
特に孤独を知らない人には全く通用しません。
ですから、そういう職業であったりする方には適用すべきではないでしょう。

 アドラー心理学は多分に性善説的な見地に立っていると思います。
自身の行動を反省できなかったり、思考しない人にとってはその傍若無人さに拍車をかけることになりかねません。
完全なる悪を崇拝する人が他者貢献へのベクトルとしてそれに向けると、悪は増長されます。
そういう意味ではものすごく人間的な面もあるのです。
功利的な指向性の強い考え方です。

故に、人生は変わります。
一度馴染めば、非常にやりやすい世界観です(それは一般の幸せとは離れるかもしれません)
アドラー心理学的視点は幸せにはなれるでしょう。
しかし、あくまで、自分の見え方がかわるのであって世界は変わりません。
システムに順応するための価値観ではなく、システムを許容するだけの価値観です。
ですから、孤独につける薬にはなれど、孤独から脱する薬ではないと思います。
四角大輔さん的なプロダクトアウトな生き方を増長させるだけです。
それはそれで良いならば、素晴らしい物でしょう。
でも、そうじゃない心の脆弱さを持つと大変な目に遭います。
経験談ですw

以前書いてきたものに全て集約されてしまっています。
 明文化された、という意味で価値はあります。
でも、やはり寝耳に水感も否めなかったのも事実です。
 ずっと一般から外れてきた者として、社会に組み込まれてみたい僕には必要ない話かもしれません。
だからあまり書くことが無いんですよ(笑)

 一つ、個人的な簡単な生き方を書きたいと思います。
「批判と非難は違う」
という私の友人の言葉です。
君を責めてるんじゃない、君の意見に意見しているんだと。
そこに生理的な感情を付け足して批判されるから悩むんだ。
人間性を非難すべき場じゃないところで、そういうこと言われるし、匂わすからダメなんですよね。
  この本も、怒りをあらわにすることは、そうしたいからしているんだと言われています。
まぁ、間違いないですよね。
怒る、という必要性は少ないんですよ。
冷静に考えて、その必然性は分かりづらいですよ。

とりあえず、僕らは人間です。
弱肉強食ってそれWildLifeの話でしょうwって思えるかですよ。
人間であり、理性を持ち、言語を理解し、芸術を感じられる。
それってすごいですよ。

2014年9月5日金曜日

AKIRAと僕ら

 今更ですが、"AKIRA"を見ましたよ。
 先に、見応えだけお伝えしますが、とりあえず作画が素晴らしいですね。
イントロだけでも、僕はセル画の迫力と懐かしさに持ってかれました。
最近のアニメの明るいベタ塗りばかり見ていて、寧ろ新鮮にすら感じましたよ。
アニメはこうだった。
そう思い出させてくれます。

 はて、この作品から僕が感じたことはなんですか、と聞かれれば、
いつの世にも蔓延る社会病理と、子供という存在でした。

 先に社会病理について述べますが、
まぁ単純な話僕にはその「病気」が分からなかったというのが感想です。
あまりに今と違う世界の話のように感じるのです。
 暴走族が、不良が蔓延り、社会全てが堕落し、鉛色の空と焦げた臭いが充満する街。
新興宗教が生まれ、政治が腐敗し、戦争の恐怖が世界に広がる。
一方でパソコン、ファミコンが生まれ文化が多様化し、サブカルチャーが発達した。
そんな時代だった思うのです。
 例え誇張だとしても、作り手たちが見たその当時の雰囲気は色濃く伝わります。
 また、文化の多様化の一方で、貧富の差が拡大したのもこの頃なんだと思います。
高度経済成長から経済も伸び続け、世界と比肩する日本。
それだけ自由を得たのでしょう。
 しかし、同時に責任も発生した。しかし、娯楽と夢がその責任から目を背けさせた。
というよりも、自由とはなんたるかを知らず、責任を知りもしなかったのだと思います。
アイドルグループからアメリカンドリーム、ユーミンがロマンを唄い、勝ち組を作り上げてしまったが故だと僕は思うのです。
 まぁ、そうして金田達のような孤児と言われるような子供や、レールに乗りきれない不良が生まれだしたとおもうのです。

 問題はそうした日の目の当たらない人々にも力がある、ということです。
それは何なのかは分かりませんが、AKIRAなんだと思います。
可能性、とでも換言すればいいんでしょうか。
悲劇の人生を過ごしてきた鉄雄が力を手に入れて、現代を壊せるだけの力を持つ。
不良みたいなことやってるくらいですから、一般からはクズだと見られるような者だったんでしょう。
 そんなクズが世界を変える力を持っている。
良い事じゃないか、と思うのです。
 この視点、やはりマイノリティな人生を送ったことのある人にしか分からないんですよ。
そもそも、クズはクズの力しかないって発想なんですよ。
 でも実際そうじゃないことが犯罪として80年代に現れたわけですよ。
犯罪の臭いが変わっていったのもこのころだと思います。
そういう弱者が起こした事件が世の中を震撼させた、そんな時代だったんじゃないかと思います。
 あくまで、想像です。
何の史実を確かめてもいませんし、例示できるわけではありません。
 この映画をみてそう思ったに過ぎないので、鵜呑みにしないでください。
 ただ、僕にそう思わせるだけの話だったと思うだけです。

 そう思わせる理由には、背景にも一理ありますが、やはりキャラクターの人間味でしょう。
人間味とは本質的には弱さ、だと思うのです。
この人も人間だな、と思わせる脆さ。
特に鉄雄のその弱さは、こちらに母性や父性さえ感じさせるか弱さなのです。
敵視している言動ばかりする割には、力に呑みこまれながらも金田に救いを求める姿。
超能力を持っても真正面から向かうような潔さ。
そういうったものから、鉄雄に人間味を感じずにはいられないのです。
表情の描かれ方の良さもあるでしょうし、演技の良さもありますね。
兎に角、鉄雄というキャラクター、気に入りました。

 ここまではAKIRAそのもに対する感想で、以降子供についての思いです。

 何故にAKIRAで「こども」というテーマにぶつかったかというと、孤児だった子供たちが主人公になっていたからです。
 「また、孤児かよ」
正直、思いました(笑)
孤児そのものという設定は珍しいですが、親や大人から虐げられた子供という点では正直よくあるテーマだと思うのです。
 大好きなフルーツバスケット、彼氏彼女の事情、ピングドラム、猫物語。
そういった作品からはたまたNARUTOまで、アニメや漫画の世界でこういった設定がされるの珍しくない。
  そもそも、両親という存在が明示されない作品など多数あると思います。
だいたいが不在であったり、亡くなっていたり。
そもそも、大人という存在が描かれることが少なく、下手をしたら敵である。
これは何故なのでしょうか。

 仮説に過ぎませんが、アウトローな生き方をしてきた人々が作り手だということかもしれません。
AKIRA製作当時、恐らくアニメーターという職業も、SFというジャンルももしかしたら「オタク」要素の強い物だったかもと思います。
 漫画ばかり読んで、と怒られていた時代かもしれません。
 今でさえそういう風潮は消えません。
私の知る漫画家は孤児院出身らしいし、ウテナやピングドラムの幾原さんも母子家庭だったとか。
宮崎駿も疎開中のある出来事が彼の価値観を一変させたと言われています。
 まぁあくまでこじつけではありますが、そういう方は何かと排斥され、コンプレックスを抱えます。
見逃されてきたものを見て育ってきたと思うんです。
一般には見えないもの、見えないようにしてきたものに敏感だったと言いますか。
  多くの人にとって見る必要のない物を見てきて、それに反応した。
反応できたということが彼ら創作者たる所以なのじゃないかと思います。
それも幼少期に。
 知識と経験がないがために、自身の幸不幸に敏感な時期にそういう目に遭うというのは、大きいことだと思うのです。

 少なくとも、多感な子供時代の経験は非常に重要だということを多くの人に知ってもらいたいと思います。
そういう環境が、出来事がその人の人生を決めるのです。
決まってしまうという言い方が近いですね。
 それは本当に望む望まないに限らず起きてしまうことで、誰もが加害者であり被害者である可能性のあることです。
ほんの些細なことから喜びも悲しみも覚え、それが生涯にわたり尾を引きます。
 
 そんな些細なことに疑問を持ったり、気付いたり、当事者になった人が、漫画やアニメといった媒体に魅力を感じるのだと思います。
 漫画やアニメの世界はそういうもので満ちています。
ファンタジーという非現実の中で、現実で見逃されてきたものを描く場合が多いのです。
それはおそらく書き手の経験などにもよるでしょう。
それ以上にか、それ故にか、漫画とアニメはそういう文化なのです。
 そして、それが一コンテンツとして経済を支えてる。
この影響力をどう考えるでしょうか?
  そうした苦しい環境や、悲しい出来事に共感するものが多くいるという事実は、裏を返せばそれだけ似たような事実があって、被害者と加害者が存在しているということですよ。
 
 それで何が言いたいのかというと、正直、自分でもわかりません。
安直に言えば「仲良くしろ」ということなのですが、 それも違う気がします。
大人だこどもだということを考えろ、というの当たってるようで違う。

 それでもまとめるなら「あなたにはあなたの知らない価値観がある」ということです。
 そしてそれは、誰しもが持っていて軽視されていいものではないということですかね。
 例えばイジメの発端ともなる「第一印象で人を決める」。それもまぁ良いでしょう。
それは本能的なことですし、根強いものです。
しかしそれは「ステレオタイプ」そのものじゃないかと思います。
本能に従順であることはあまりに動物的すぎませんか。
人間なんだから理性を使いましょうよ、というのが僕の願いでもあり主張でしょうか。
「世の中弱肉強食だっていうけど、僕らは人間だから。」
何かで聞いた気がするセリフですが、それが人間の美しさだと思いますよ。
 就活で第一印象が大事、と言われます。
まぁそれは否定しません。
けれど、一般的な人付き合いにそれを求めるのはどうなのでしょうか?
例えば恋人探し、友達探し。
それはチャームポイントではありますが、一部でしかないわけで。
表面的な部分しか評価できていない、もっと言えば「表面的な部分でしか評価しない習慣」の表れだと思うのです。
 
 黒バス事件の犯人渡辺某と秋葉原連続通り魔事件の加藤某。
彼らはそういった表層的な部分のみを評価され、自信も自身も失い、社会へ狂気を突き付けることとなった人だと思います。遠隔操作事件の片山某もそうかもしれません。
  彼らは(おそらく)、幼少時代にキモイという言葉が一般化して、新しく生まれた差別の犠牲になったと思います。
(少なくとも、ネット上じゃそうのように言われたりしていますからね)
 「イケメンじゃない」ならわかります。
 「性格が悪い」もわかります。
 「行動が奇怪」というのもわかります。
けれど、ここ数年で流行り出した「キモイ」という評価は何を差しているのか解りません。
僕もその言葉に病んだ身ですが、何を以て言われているのかよくわからないのです。
無自覚こそ悪なのかもしれませんが、自分のクセなどは自身じゃ分からないものですし、
容姿も治せなければ、性格など改善する機会は稀です。
にもかかわらず、「キモイ」という言葉で曖昧に説明されるからこそ、汚点も難点も見えず、
改善のしようもないのです。
現代人には身に覚えのない過去の戦争での過ちで迫害されるような気分でしょう。
自分の知らない世界で起きている出来事が自分の責任にされる怖さ。
これほどの悪意は存在しないですよ。

 そうした人は、結局すべての自分の行動を抑制することから始めます。
「ホワイトリスト方式の生き方」とでも言えばいいんでしょうか。
 「教室の角で黙っている」がリスト入りすれば、そればかり行います。
 「関わらないで」と言われれば、そればかり行います。
他のことは危険を及ぼすのでやりません。
 そういう生き方は本当に悲しいですよ。
許された行為しかできない人になるんですよ。
最悪ですよ。

子供時代というのは多感な時期です。
そこで受けた傷は多分一生治らないでしょう。
古傷を眺めながら、笑えるようになれば万々歳です。
けれど、中には傷すら追わない人もいます。
それはそれで幸せな人生でしょう。
でも、そうじゃないんだってことは知って欲しいですね。
だからこそ、子供の教育はしっかりしてい欲しいし、そういう考えを持てる親が増えれば良いなと思います。
アニメや漫画の中だけで悲劇が繰り返されないよう願うばかりです。

何書いてあるか分からないし、多分もう書けないのでここまで。