雲が兎みたいに千切れ跳び、その輪郭を燃やしながら、コロナのように輝いていた夕方の空。そんな空に視線を漂わせながら、僕は陰鬱な電車の中、揺れてい
た。何の熱意もないモーター音と、スライムのようにベトベトした汚い言葉の往来。長年の頑固が染みついたようなしかめっ面のご年配様や、変身シーンを曝け
出す超絶美少女。誰も彼もが自分自身を毛穴から噴き出して、何の変哲もなく過ごしている。ドンッと肩を叩いたら、きっと誰もが怒るだろう。にもかかわら
ず、これだけ他人が同じ空間にいて、何の警戒心もなくリラックスしているような姿を見ていると、家と自分の属する社会、その二つを繋ぐチューブのような空間のようだ。所属する場になって初めて人間になれる、個人未満の社会の空洞。電車とはそういうところかもしれない。
その一方で、僕は電話を両手に携えている。電車が空間と空間を繋ぐなら、行く宛の無い僕が繋がる場所は空だけだった。電波の飛び交う空。その向こうに君がいる。来る日も来る日も、僕は空を見上げている。心ここになく、空を漂う。
僕にとっては仕事場も、学校もチューブだった。透明人間のままその足で向かい、そのまま帰ってくる、延々と続く洞穴。家と家を繋ぐタイムトンネル。気がつけば家の中にいる。
外へ出ようものなら、視線を投げてもミスコース。声をかけてもデッドボール。僕という人格がストライクゾーンに入るか入らないのかの一人野球のような毎日。そんなことが何年も続けば、心も擦り切れていく。
それでも、過去は過去で生きている。楽しかった思い出もある。もっとも輝いてい
た時間は、彼女といたあの時なのかもしれない。いつでもあの時に帰ってこられるような気がして、僕は未だに彼女にすがっている。甘えている。過去に、優し
さに。だから、僕は毎日の着信に一喜一憂して、彼女も見ているのかもしれない空を見上げたくなるのだった。
その日偶然、同じ駅を使うものだから、会ってしまった。彼女に。一昔前までは、目で追っていた後姿だからすぐにわかった。僕は思わず声をかけてしまった。
他愛もない挨拶。
久方ぶりの挨拶。
今までも文字の上で話していたけれども、声から仕草、匂いまで全てを脳が覚えていたのを感じた。変なもので、彼女の手はいつも空中を泳いでいる。手にかけたベージュのハンドバッグに右手は塞がれているが、左手はお腹を撫でるやら、胸に当てるやら、落ち着きがなかった。水槽の金魚のようにあの時のままな彼女をみて、僕の気持ちはぶり返した。
それ相応に趣味の合う僕らは、最近の新刊の話から始めた。そのうち結局いつも、マスターピースともいえる作品に舞い戻ってしまうのだが。また同じ話をしている。
また同じ話をできている。まだ、同じ話をしていたい。途切れの無くなった僕らの会話に、少しずつ冷や汗に似た愛しさが滲んできた。だから、僕は話を変え、あえて聞いた。
「彼氏とはうまくやってるの?」
照れくさそうに笑い声を小さく立てながら、彼女は微笑んだ。こないだはどこ行った、これはどこでもらった。趣味がどうとかこうとかで。他愛もない話が続く。慈愛もない話は続いていってしまう。一部のすきもない幸せが、彼女の口から語られていく。
そう、僕は狡猾だった。隙あらば、またあの手を取ろうとしている。時間あらば、またあの笑顔をせしめようとしている。けれど、僕がこんな話を切り出したの
は、そんなためじゃない。だから、僕は知る限りの情報を与えた。デートはどこがいいとか、旅行するならどこがいいとか、そんなことばかり。電車の乗継から、美味しい食べ物まで。時間の許す限り、場所という場所を教えてあげた。
短い時間はやはりすぐ過ぎる。僕が歩いて40分かかる距離に、電車は数分で辿り着いた。
「文明の発達がもたらした便利さの裏で、大事な何かを失ってはいないだろうか。」
そう尋ねた僕の顔をみて、彼女は首をかしげ、笑った。
「何、その哲学者めいたセリフは?」
疲れた空気の流れる車内にアナウンスが響く。ゆっくりと、スピードを落としていく電車。制動によろめく人々。会話の中にさようならの支度が混じっていく。
日はもう完全に落ちて、駅前の店店の明かりが暗闇に浮かんでいる。子供の頃みた”ぬり壁”のように白くて大きな蛍光灯の看板たちが、数人のスーツ姿を飲み
込んでいる。電車が止まりきったところで、音とともにドアが勝手に開いた。
「さっきの話、前に君に言った話だよ。じゃあね。」
僕は人のせせらぎに身を任せ、島の上に降り立った。振り返ると手を振る彼女が窓の向こうにいる。僕も手首だけで振りかえす。勝手に扉が閉まって、電車は彼女を乗せたまま、僕が全力で走っても追いつかないスピードで、また走り出した。
改札を出ると、気付けば少し深めに息を吐いていた。お腹をへこましながら鼻から吸った空気は、口から風船のように出ていく。溜息混じり20%。明るい電車
のなかから、真っ黒な空の下に来たからか、外は少し輝いて見える。街の匂いに、さびれぐあいと汚さに既視感を覚える。そうか、ただいま、と言う感じだ。
帰ってきたような気がしたのはしばらくぶりな気がする。木枯らしに満たないような寒風が、目を乾かした。耳を覆うヘッドホンから流れるピアノとハープ、そ
してオーボエの寄りかかるような調べ。さっきまでは郷愁すら感じていたのに、今は優しくささやいている。
最近の僕は、陽も短くなり、時間間隔が曖昧になっている。何時なのか見当もつかない。時計を付けないものだから、バッグの中に身を潜めていた電話を取り出した。普段しまわないものだから、どこに入れているか忘れていた。一件の通知あり。
「そんな話してないよ?」
「だいぶ昔のことだから忘れているんだよ」
僕にとっては、過不足無くそれでいいのかもしれない。