2015年9月27日日曜日

心が叫びたがっているんだ。(二周目)

急遽休みになったので、心が叫びたがってるんだ、二周目見てきました。
゙必要ない゙とがいらない゛とか人から言われたことがある人は、響くアニメだと思います。

「災厄からの救い」
自分の存在が災厄だと思ったことありますか?自分のせいで人が不幸になり、自分のせいで煩わしくなったり苛立たせたり。そんな風に人を思わせる自分ば災厄゛で゙最悪゛だと思うことはありますか?
自分は毎日のように思っています。
僕が部下じゃなかったら、僕がこの家にいなかったら、僕が僕という人間じゃなかったら…とか毎日そんなこと考えてしまいます。
そうならないために、努力はしなければなりません(なかなか報われないものではありますが)。その努力を見ていてくれる人が、この世界には存在するということを感じさせてくれるアニメだという一つの見方もできると思いました。
例えば主人公、成瀬順を多くの級友が認めているのばがんばっている゛ことです。彼女の才能とかではありません。
何かを伝えようと必死になってる順ちゃんをもっと他の皆に見てもらいたい、という思いが周りの人達から溢れてくるのは素敵な゙優しさ゛だと思います。
あともう一つの例として、田崎君の友人、三嶋君が彼を庇う姿にも同じようなものを感じます。
あとは、坂上君が成瀬順を庇うところもですね。
いずれにせよ、本人が知らない魅力や努力というものを他人が知っているという事実を描いてる気がしてならないのです。
自分の知らない魅力、努力。(もちろん欠点も)
これって他人と関わらなければ分からないんですよね。
゙世界が広がる゛ってこういうことを言うんじゃないかと、思います。
そうして、世界が広がって、人は救われるのです。
誰かが私を見てくれて、それを好きだと言ってくれて、罪悪感から幾分か解放され、世界に居場所を見つけて、人は初めて救われるのです。

 「救われる為の゙言葉゛」
 それに気づく為の遣り取りをする手段が、どうしたっで言葉゙なんです。どうしたって。ここさけはこの言葉にも勿論焦点を当てています。
 ゙世界が広がる゙時、場合によっては、自分も他人も知らない自分が言葉になって表れるかもしれません
(そういうのが悪意や狂言と呼ばれるものでしょう)
大抵の場合は、自分と他人の知ってる自分や、自分だけが知ってる自分、他人だけが知ってる自分が、誰かとの言葉の遣り取りの中で生まれます。
それはフィーリングとかだけではどうしたって伝わらないんですよ。
 言葉というのは、意思伝達の為の共通記号なはずです。梨の音を奏でても全員が梨とは判断できませんし、梨の匂いを嗅いでも全員が梨とは判断できません。梨の味がしても全員が梨とは判断できませんし、梨を描いても全員が梨とは判断できないかもしれません。
でも、「梨」の字一つで、全員がそれぞれに思う梨を想像できます。言葉とはそれだけの一般性を含んだものなのです。
ですから、言葉で遣り取りするということは非常に具体的で客観的、反芻可能で再現可能な、僕ら人間のみに許された非常に便利な意思伝達手段だと思います。
 だから、誰かに何かを伝えるにはやはり「言葉」で在る必要があるのです。分かりやすく、主観の混じらない言葉を伝えなくてはならないのです。
「言葉にしなきゃ伝わらない」ってやつです。

 「音楽の力」
だのに、世界は言葉にするのを躊躇ったり、煩わしく思ったり、恥ずかしかったりする人が多くいます。それは「不器用」なだけで、一種の個性であり、決して糾弾されるべきものではありません。
そんな不器用な成瀬順が「音楽の力」を借りて人に何かを伝え続けようとする姿が描かれます。
そう、「音楽の力」もまたこのアニメのテーマだと思います。
不器用な人間が、言葉以外で伝える為に努力し続ける。その手段の一つが、音楽として今回は描かれました。
何故音楽が、言葉以上の価値を持つのかは語りきれるものではありませんが、それで伝わる事があるのは言うまでもないでしょう。割愛。
しかし、不器用な成瀬順にとってのコミュニケーションの手段が音楽であり、音楽にはそれだけの力があるということを、不器用かもしれない監督長井龍雪にとってのコミュニケーション手段であるアニメで僕に伝わりました。芸術とはそういうものだと思います。
言葉にできないものを試行錯誤して、丹誠込めて作り、言葉以上を伝える。アニメの力をも感じられる作品です。

「コミュニケーションとは傷つけることが目的ではない」
ただし、言葉にすること、伝えることで人を傷つけることも多くあります。
言葉は誰かを傷つけるのです。
どんなに゙心が叫びたがっていても゙、人を傷つけて良い理由にはなりません。
「消えろとか簡単に言うなよ」、って成瀬順が激昂するシーンがあります。
あれは「心が叫びたがっている」シーンなのに、何故誰も幸せそうに描かないのだろうと、ふと思ったのです。
田崎君が陰口を言われるシーンや、通りすがりの女性に「無理」と言われているシーンもそう描いてました。
あぁそうか、「言いたいことを言う」は、誰かを傷つける為に使ってはいけないんだという戒めなんだ、と思いました。
 「言いたいことを言う」がまかり通って「キモイ」だの「うざい」だのなんだのが流行り、多くの人が死地や絶望に追いやられました。これは「言いたいことを言った」結果なのでしょう。でも、誰も幸せになってないんですよ、これ。言われた方も言わずもがな、言った方も「言う必要のないこと」を言っただけであって、誰も幸せになってないんです。
 「言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃない」と以前、うちの子に言われましたが、多分それは「傷つけるための言葉」だったから言うべきじゃないと思ったのでしょう。
 友人の言葉が思い出されます。「批判と非難は違う」と。
 人を傷つける為に、人に何かを伝えて良いわけがないのです。安部死ね(敢えての誤字)と言っている人たちに幻滅するのはこの部分なのかもしれません。
巷によくいる「一回殴って良い?」だのと軽々しく口にする人たちも同じです。人を傷つける為に人にものを伝える人たちです。(俺の人生はこういう奴らにぶち壊されたとも言えます、吐き気がします)
 僕らは誰かを傷つけるためにコミュニケーションをするのではない。僕らは誰かを傷つけるために表現をするのではない。僕らは誰かを傷つけるために言葉を持ったのではない。
 分かり合うために言葉を持ち、表現をして、コミュニケーションを図るのだ。そう、僕には思えます。

 「分かり合うこと」
しかし、劇中、成瀬順は坂上君を傷つけます。散々罵ります。でも、それを聞いて坂上君は涙するのです。その涙の意味だけはイマイチ飲み込めないのですが、しかしながら、傷ついた様子はあまり見えません。
おそらくそれは、傷つけられる側(坂上君)に覚悟があったからなのでしょう、分かり合うための覚悟が。坂上君は、成瀬順を分かる為に、傷つくのを覚悟で叫びたいことを叫ばせたのだと思います。だからその後、成瀬順も坂上君に傷つけられるのを覚悟しながら、聞いたのでしょう。本当に分かり合うために。
このシーンでの、二人の会話は相手を傷つけるための会話だったでしょうか。多分違います。
言葉にしないことで起きるすれ違いを、衝突させて消したのでしょう。互いに一歩を踏み出すために。互いを思いながら。
この日本じゃ波風を立てないというニュアンスで、衝突することが悪いみたいな風潮がややあります。しかしながら、互いの進歩の為の衝突はあるべきだと思います。(語気が荒くなったりするとそれはともすると喧嘩になりかねませんがね)。互いのために、進むために衝突はしてもいいのだと思います。
相手を思いやることが根本にある衝突はあって然るべきだと思います。

「誰かが100%悪い訳じゃない」
世の中全部、そうだと思います。100%の悪意で誰かがアクションを起こしてるのではないのです。
成瀬順は、仁籐菜月は、坂上君や田崎君は自身の不甲斐なさに涙します。誰かが100%悪いのではないことを知っているからです。
そのことを知る寛容さと、精神的に進む向上心、心が叫びたがることを伝え、ジョハリの窓を全て見て、他者と分かり合う。そして、ともに進む。
その先に何が見えるのでしょうか。

多分、世界が美しく見えるのだと思います。
この世界を抱きしめたくなるのだと思います。
愛してると、誰かに伝えたくなるのかもしれません。

僕が今伝えたいことは、とりあえずこんなもんでしょうか。

2015年9月7日月曜日

まぼろし


 目に見えているものを数えてみた。
 ダッシュボード、光の落ちた計器類、オレンジの街灯。窓の外には高温すぎる地平線が熱を帯びて完全燃焼していた。屋根と梁だらけの狭い視界の中で、生まれかけの群青が雲みたいな綿ぼこりを白く焦がしている。質量のある空気が、私にのしかかっていた。
 私はというと、暑さに起きたのだった。一瞬、ここはどこだろうと思案する。眠気に潰された瞼を持ち上げ、顎を伝う汗を甲で拭いさりながら、思案する。
 昨日のこと。あれは確か、仕事終わりだった。しがない会社で、お茶汲みすら含まれた事務仕事を終えて、虚勢だらけのださい制服を脱いでる最中だった。
 アルミの板が増幅した携帯電話の振動に驚いて、ロッカーに手を伸ばした。周りに誰もいないことを確認し、視線を右手に持ったディスプレイへ運ぶ。
 『海へ行こう』
 そんなメッセージが届いたのだった。
 『今から?』
 『今から』
 『急すぎるよ』
 『明日休みでしょ』
 『そうだけど…』
 『じゃ、最寄りの駅に7時ね』
 現在時刻、1815分。多分彼のことだから、もういるんだろう。そう思った。
 返信することもせずに早々と着替えて、足早に退勤。金曜日のコンパ好き同期に会うのも煩わしかったので、私は誰にも挨拶せずにビルをでた。彼を待たせるのも申し訳ないし。
 徒歩15分、ベッドタウンと都会の境界に位置する会社のほとんどが、長い。距離を歩く。それを知っていて駅を集合場所にするのが彼らしい。ややもすれば気が利かない、そういう奴だった。
 通り雨のにおいで蒸した道すがら、私は言うのだった。
 『会社今出た』
 すぐに返事はないか、と諦めてバッグにしまおうと思ったときだ。
 『ごめん、ほんの少し遅れる』
 との一報。忘れ物かなんかだだろう。残念ながらすでに待ち合わせ場所にいるという予想は外れた。
 『わかった』
 そう返事をして、私は電話と入れ替えに、小さな水筒を取り出し、暑さを紛らわすようにヒヤリとした水を飲み、歩調を緩めた。9月だというのにまだ暑い。
 
 駅につくと彼はいた。待った?と聞いてくる彼に「今来たところ」と返す。
 よし、と言いながら、彼は私を車に誘った。

 そう、そこまでは覚えていたのだが、その後の記憶がない。が、そんなことはどうでもよかった。運転席には誰もいない。エアコンも切れている。ここは蒸し風呂状態だ。だくだくの汗が不快さを増す。本当にあいつの気の利かなさはすごい。にわかに苛立つ、私。ただし、にわかにだ。
 暑さに耐えかね、私はすぐにドアを開け外に出た。ふわっと強めの風が吹く。肌の水滴を通して熱が吸い取られ、私の体温は空に舞った。額や腕、首筋までのすべての汗が、火照った体を穏やかにする。リネンのブラウスが肌をくすぐるように触れて、その微細な隙間を風が通り過ぎて行った。
 気温はやや暑いけれども、海風は心地よい。くすんだ潮の匂いが鼻腔と肌に積っていく。舞いあがり、頬に張り付く髪を手櫛で撫で、耳にかけた。
 ここは海だと思いながら、未だ深く碧い地平線を眺めていた。
 陸と海と。その二択しかない光景が、私は好きだった。星はまだ輝きを失わずに空に散りばめられていた。都会とは違う夜空が、私は好きだと思った。絶えず吹く風が耳元でざわつくのも、私は好きだった。誰もいない静けさが、好きだった。
 どうして。
 誰もいないの。
 久々に見た自然の大きさに包まれて、私はすっかり忘れていた。
 あいつはどこだろう。
 半開きにしたドアからバッグをあさり、小さなタオルで汗を拭く。
 電話をとる。
 ここは、彼は、どこだろう。
 『どこにいるの』
 『あ、起きた?砂浜にいるよ、おいで』
 『嫌だ』
 待ってみたものの、既読はしばらくつかなかった。
 その無言の返事を見て、数歩歩いて、駐車場を作る石垣から海を見渡した。
 なるほど、確かに彼は砂浜にいた。ベージュ色のシャツの丸い背中が、砂浜に落ちていた。景色と同化しているみたいに、ピクリとも動かない。薄暗がりの中でなんとか見える彼の姿は、かろうじて見える星みたいだった。とめどない地平線のせいもあって、ひどく遠く感じた。単調で広大な砂浜と海が、遠近感を奪っているだろう。視界に移るすべてが際限ないせいで、彼はとても小さかった。
 車の中のバッグを拾い上げ、彼のもとまで歩きはじめた。

 コンクリートの階段下り、少し歩いてわかったのは、ゴミも散る砂浜を歩くのは苦労だということだった。しかも、ヒールで。決して高くはないヒールの足は砂に埋まり、非常に歩きづらい。靴の中にまで砂が入り込むのもわかる。思うように進まない。 
 諦めた私は打ち上げられた適当な流木を見つけ、腰かけた。靴を脱ぎ、揃えて木の上に置く。ストッキングも脱いで、砂を払い、畳んで靴の上に置いておいた。そして、私は素足のまま小さな砂漠をまた歩く。
 足の指の間に砂が入り込み、それが不快だった。貝殻みたいなかたい何かがあたるたび、ときどき痛かった。潔癖症というわけではないけれど、こういうのはあまり好きじゃない。わずかだけれど、彼を恨めしく思いながら、ゆっくりと進んでいった。蜃気楼みたいな、保護色の彼のもとまで。
 歩き続ける最中、彼は本当に微動だにしなかった。本当にあれは彼なのか、むしろ人なのか心配するほどだった。ひたすら海に面し、体を丸めて、砂浜にそれは置いてあった。保護色になって若干見づらい彼は、もはや蜃気楼みたいだった。

 しかし、果たして彼は間違いなくそこにいた。別人でもなく、他人でもない。顔を見なくても、その後ろ姿を見ればわかった。彼の後ろに立って、見覚えのある背中を感じる。
 「ここ、座りなよ」
 そういって彼は、体の前に隠しておいていた小さなイスを私に差し出した。驚かしてやろうかと思っていたが、気づかれていたか。
 私は「うん」とだけ言って、横に座った。
 「コーヒーでいい?」
 そう聞きながら、バッグをあさる彼。紙封筒みたいな袋をだして、水筒を取り出した。
「ちょっと待ってね」
 私はうなずく。
 彼は小さな三脚に乗ったカメラを前に据え、写真を撮っていたようだった。ご丁寧に小さな机もある。コップも二つある。コーヒーが入ってるらしい袋を机の上に置いて、お湯を注ぎ始めると、香ばしい香りがした。本当にコーヒーのようだ。
 「ここどこ?」
 「大洗」
 いつぞや一緒にいこうと言ってた場所か。彼にとって所縁の地だとか。
 ふーん、と気のない返事をすると、私は話すことがなくなった。
 彼はひたすら、海を見ている。
 電話でもいじろうと思ったけど、車に電話だけ忘れたみたいだった。だから、私もひたすら海を見ることにした。
 押して寄せる波。果てなしの碧い空。その境界をなぞる日の朱色。雲と、隙間からのぞく星。ただそれだけだった。
 目に見えるものは、本当にそれだけ。
 風のざわめきと、うたかたが立ち消える音、そして、かすかに聞こえる音楽。
 彼は小さなスピーカーで何か聞いてるようだった。それも、消え入るような音で。
 聞こえるものは、本当にそれだけだ。
 「きれいだね」
 彼はふと、私に問うてきた。
 私はうなずく。
 きれいだった。
 ただ、それ以外の感想は浮かばなかった。
 そうして数分が過ぎて、彼はコーヒーを注ぎ、手渡した。
 「外で飲むコーヒーは別格だよね」
 ため息ひとつついて、彼はそう言ってきた。
 「うん」
 私はそう答えた。確かにおいしい。どんなバタースックスのコーヒーより美味しく感じた。
 ふと彼の海を見つめる横顔を見ると、ときおり深呼吸しては、ただ、海を見ていた。険しい顔をしているわけじゃないけれど、ぼんやりと遠くを見ていいる。
 私も真似をしてみた。ただ、海だけを見る。雲だけを見る。空だけを見る。どれもしてみた。けれど、ちょっと耐えられない。じっとしてられない。よくあんなことができる。何を考えているんだろう。
 改めて彼をまじまじと見ることになった。カッコイイわけでもない、むしろ頼りなさすらある。なんで私はこの人といるのだろうと、ふと思った。
 もう一度、海を見て、考えた。けれど、答えは浮かばない。どうして、私はこの人とここにいるんだろう。
 肩と肩が握りこぶし一個分しかない私たちの距離のせいか、ときどき、潮の匂いとは違う塩の臭いがする。汗でもかいているのだろう。彼はあまり暑そうには見えないが。
 そう思って首をひねり、頬をじっとみてみる。汗ばんでいる様子はなし。剃り残したと思しき、髭の長い一本、風でみだされた髪の数本が散らばり、肌には無数の毛穴。そんな皮膚があった。張りはないけれど、温かそうな肌がそこにあった。大き目の鼻、ややも張った頬骨、ぱっちりした瞳。
 少し、体をひねって、首を伸ばせば、唇で彼に触れられるなのだ。意識してみると、無駄に緊張する。まぎれもなく、彼は男の人だという意識が頭から離れなくなってしまった。
 熱に一番敏感な唇で、その体温を調べてみれば、もっと近くに感じられるのかもしれない。私にはない筋肉のついた腕や、大きな体を。空気を伝いジワリとにじり寄るその温かさを、感じられるのかもしれない。そう、思った。思ってしまったのだった。
 
 けれども、そんなことをしても、どうしようもないことを知っている。私は彼の恋人でもないのだから。ましてや、好きという風に思ったことすらない。これは本当だ。ただ、なぜだか彼と一緒にいることが多いというだけの間柄だった。その理由もわからないが、ただ、居心地のいい人だった。彼との間で交わされる時間のやりとりが、私には非現実的にすら思えて。それは穏やかで、柔らかくて、心地よくて。そうそれは、幻のようだった。
 多分、世界のどこにもこういう人はいないだろうな、と思ってしまう。こんな人が二人といるわけがないだろうな、と思ってしまう。なんだか彼は、特別な気がしてならないのだった。
 友人は、「あんたの縁のなさのせいで、彼が世界で唯一の相手だと思いこみたがってるのよ」となかなか辛辣なコメントをくれたが、果たしてそうなのだろうか。
 私と彼との間を恋でつなぐことももしかしたら可能かもしれないし、愛を架けることも可能なのかもしれない。
 だけれども、そうしない理由があるのだとすれば、私が彼を愛してしまっているからかもしれない。愛してるからこそ、もっと違う言い方をすれば、彼の幸せを願っているからこそ、私は彼の恋人にも愛人にもなる気がないのかもしれない。いつかは終るかもしれないそんな関係性は、私たちを言い表すにはどうも適当じゃない気がする。大勢が求めた真実の愛、純愛ではない関係性が私たちにはあって、それをなくしてしまえば、もう二度と修復できないような。そんな予感がする。それが怖くて、悔しい。
 だから、私は私でいるのだ。一歩も進まず、一歩も退かず、彼の横にいるキーホルダーみたいに、私は私でいるのだ。
 それで、私は幸せだった。幸せなはずである。
 愛でもなければ、恋でもなければ、友情でもない。多分、私たちのこの時間は、夢か何かなのでは。幻なのでは。
 
 そんな押し問答を繰り返しているうちに、苛立ち、私は立ち上がり海まで駆けていった。苛立ったのかは定かではないが、なんだかストレスがたまった。
 波がくるかこないかの瀬戸際まで来て止まり、波の往来の真ん中に立ち止まった。空は白み、海原は燃えている。もう夜は帰りだし、すでに朝は萌えている。雲の隙間から光が立ち、消えかけの月が大きく見える。
 知らぬ間に、海は足元までやってきていた。砂を運び、私の足をぬらした。
 海の水はもう冷たかった。その冷たさに思わず、大きな声が出てしまう。
 「大丈夫?クラゲか何か?」
 と言いながらやや慌てて小走りに彼が近づいてきた。なんだか心配してくれたらしい。
 近くに来るなり彼はしゃがみこんで、私の足を見た。
 波が寄せて二人の足を浸す。
 屈んだ彼の足も海につかる。
 「えい」
 私は柄にもなくそんな声をだして、水を蹴り上げた。水が跳ね、滴が白んだ空を舞う。局地的な豪雨だった。
 雨上がり、彼のベージュのシャツは、ところどころ色が濃くなっている。それも結構な面積で。顎や指先から水が滴っている。
 しかし、何の反応もない。怒るでもなく、苛立つのでもなく、仕返しするのでもなく。
 彼の黙りようを聞いて、私は思わず逃げ出した。彼は怒る時はかなり怖い。
 「もうさ、子供じゃないんだから…」
と、彼が深いため息交じりにそんなことを言ってるのは聞こえた。
ただ、私は逃げた。下手したら説教パターンだったから。
 しかし、彼はいいサンダルを履いているせいで、すぐに追いついた。
 スポーツ用ビーチサンダルなど持っているのである。ファッションセンスはないくせに、そういうのは一人前に持っている。
 そうして、追いつき、私の手をつかみ、いうのだった。

「もう子供じゃないし、お互いもういい年だしさ、結婚でもしておきますか?ぼくら。」
 

2015年8月17日月曜日

「なぞなぞ。夏になると急に動きが悪くなるものなーんだ。」
彼女はそう僕に問うてきた。考えるフリをして、あたかも考えているる風を装おうとして、腕を組み彼女から目を離してみる。正直何が何だか、全然答えの見当がつかないので、外の景色に目が行く。今日も熱い。青空とも言えない、霞みがかった空。視界を奪う気のないやる気のない霧のように、僕から青だけを奪う雲。いい加減飽き飽きしていた、8月の半ばだった。
「答えは君でした。」
彼女はそういった。考える時間すらまともに与えてくれない。
「僕?」
「そう、君。」
彼女は笑っていう。
「だっていつもつまらなそうじゃん。私の声も耳に入ってないみたいだし、どこかに行こうと言っても暑がるし。何、いったい何が不服なの?」
べつに、と言葉を逃すにとどまる。何の不満もないけど、あえて言えば何の満足もないのが不満だった。
「きみはいつだってそうだ。私のことを好きだとか、平気で言うくせに、いつも楽しそうじゃない。大体の場合、楽しそうじゃない。こんな美人放っておくなんて贅沢ものだよ。」
彼女は若干ふくれっ面めいた顔をする。あたかも怒っているように顔をつくる。僕はその顔が半分本当で、半分嘘なのを知っている。そしてその全部が心地よく目に入ってくるのを幸せに思う。これは本心だ。
「ごめんごめん。だってさ、うるさいじゃん。セミ。扇風機。車の音何もかも。」
「私は五月蠅くないのに?」
「たとえ五月蠅くても、そこに君がいるのは僕がそうしようと思っているから在る結果だ。不満も満足もあるが邪魔じゃない」
「あんた誰よ、いったいどんな妄想家なのよ」
彼女の言葉で僕はいかに臭い言葉を言ったか一瞬考えたけれども、考えることをやめにした。
「まぁ、そんなやつだから仕方ないよ。」
僕は自嘲的に言う。そして意味もなく空を見る。
彼女は、ふーん、と関心なさそうに応え、立ち上がって、キッチンへ向かった。
 憎き蝉どもめ。君たちは何故僕らの静かな時間を奪うんだ。その7日間の命を子孫繁栄のためだけに費やすなんて、辛くないのか?仮に人間がそんな生き物だったとしても、毎日胸を張って、叫んで、辛くないのか?たとえ毎日がセックス三昧だったり、毎日女の子に言い寄られたりしても、やることが子孫繁栄だぜ?君たちの思いはどこにあるんだ?何の使命があって子孫を残すんだ?
僕だったら嫌だね。快楽だらけの人生だとしても、なんか嫌だ。毎日が快楽だとしても。
「それは人間の暴論だよ」
彼女はコップ片手に戻ってきた。モノローグを読む彼女。
「蝉は蝉で、あれが幸せだと思ってやっているんでしょ?幸せも何もないかもしれないけど。何かにつき動かされてやっているんでしょ。だったら文句言っちゃいけないよ。君は何でも、自分が正しいと思っている。違うよ、彼らには彼らなりの正しさがあるんだよ」
「僕だってそれくらいわかっている。ただ、蝉が人間だとして、彼らの一生を子供を産むことに費やす気持ちとはどんなものだろうかと考えただけだよ。」
彼女はコップを机に置いて横に座る。
「じゃあ、子供を産みもしないのに本能のままに動く人間って何なの?」
「生きるのに飽きた生物?」
 彼女は意味わかんないと言いながら、僕に口づけをしてきた。不意打ちだ。
麦茶の匂いがする。口から鼻孔をくすぐるように、麦茶の香りが僕の舌にのしかかる。彼女の口は冷たかった。氷が解けるようにゆっくりと、その冷たさも人肌になじんでいく。彼女の鼻息が逃げ場をなくして、僕の頬を撫でる。もみあげと、顔の産毛が引っ張られるような、真っ直ぐとした彼女の匂い。
 いきなりされたものだから、僕の目は開いたままだった。汗で艶やかな彼女の額で視界は染まる。彼女の目が閉じられているのを見て、僕の目はやり場もない。ゆっくりと視界を黒くした。足から力が抜ける。痺れるように、冷たくなるように。まるで彼女に脳をいじられてコントロールされているみたいに、僕は身動きもとれない。
「蝉にでもなる?」
唇を離した彼女は冷たく笑いながら、僕に聞いた。覚めていて、冷めていた笑顔で。何か企んでる。
「僕はもう生きるのに飽きているからね、それもまた一興」
「つまらない男だね、本当に。」
「ならどうして僕とこんなことをしているんだ?」
「私もつまらないから。」
「ならば君こそ蝉じゃないか」
「私は夢も目標もある人間です」
ふて腐れたように彼女は言う。
「なら一生君に付いていこうかな。」
そういう僕は、今年何回目かの彼女を見下ろしながら、なりゆきにまかせる。
溜息一つ、放り投げる。
さようなら。
僕はまた今日をなんとなくで殺していく。
6日目の事だった。

2015年7月1日水曜日

hello etchiopia



日本という国はそれなりにどこも一緒である。
文化住宅とアスファルト、電信柱。どこいっても同じなのである。
日本らしさ、というのは特に存在しないと思っている。けれども、それが日本人らしさなんだとも思ったりする。
暗闇に浮かぶ信号機が宇宙船のスイッチの一つ一つのようで、車は川のように目に見えない変化を伴い変化する。空は消えても気温と湿度に互換を張り巡らせ、季節や空気を感じられる。
そんな風にして、日本の空気を感じ取った音楽こそ、日本人にしか作れない音なのじゃないかと思うのである。ジメジメとしながら、微風を纏う音楽。ホッピー やサワーのような、工夫して美味しくしようとして、オヤジギャグみたいな、遊び心を大切にした音楽。(失礼)。でもいいバンドがいるもんだなぁ、と思うの である。
日本のごった煮で丼ぶりな都会的なポップセンス。可愛い物と美味しいものが煌めく、狂楽的な娯楽に薄汚れながらも幸せに満ちた街に楽しいをもたらす音。
急ぐのを辞めながらも憧憬の消えぬノスタルジア。取捨選択をし続けて、質素になって、着飾らずに音楽と共に歩き続けた。猛スピードで去っていく人の流れと時間に追いつこうとして追いつけずに流された物に思いを馳せる。
この曲に関しては後者に寄った曲で、ドツボだった。島と島を隔てる果てのない概念としての海が、本物の海にも人海にも横たわる。物理的な距離、精神的な遠さなど、遠く感じる全てに思いを、郷愁を巡らす。そんな音なんだよなぁ。
はっぴいえんどとかCEROが好きな人はきっと好きだよ。遊び心と音楽愛に詰まった曲だらけ。演奏してる方も楽しんでるのが分かる気がする。
日本人にもいい音楽作る人たちはいっぱいいるんだよ!

2015年2月27日金曜日

ミューズの聖域にて


 こんなところにどうして機械人形が。しかも、何人も。ここは不可侵の場所なのに。この聖域もとうとう汚されてしまったのだろうか。
 そう思った時にはもう、奴らは僕を認識してゆっくりと迫ってきた。
 逃げなきゃ、と思い踵を返すと、そちらの方向にもすでに数メートル先まで機械人形が二体迫ってきていた。もう、僕の速度じゃ逃げ切れなかった。
 近づいてくる奴らを見ながら、僕はどう戦おうか考えていた。けれど、数が多すぎる。一体一体のシュミレーションならば頭の中で描けても、相手の数が多すぎてどのプランも成功しそうになかった。
 考えろ、考えろ。
 双方の相手の接近を目で確認しながら、そう自分に言い続けても何一つ明暗が浮かばない。そうしてる間にもどんどん奴らは近づいてきた。心臓の鼓動が速い。脳の血管が詰まってるみたいに息苦しい。血の気が引き、手が震える。秋口だというのに酷く寒さを感じた。 
 奴らはとうとう僕を取り囲んだ。八方ふさがりとはまさにこの状況。四面楚歌。
 古代の人間が聞いた「楚の歌」とはどんな歌だったんだろうか。きっと悲しい歌ではないのだろう。雄雄しく猛々しい歌だったのだろう。祭りの時に聞くような、男の歌だったのだろう。最期に聞く曲としては、酷く怖いモノだったに違いない。一丸となって唸る歌。自分たちを征服する喜びで唄う歌。そんなものが人の声だけで奏でられ、足音の質量を伴って迫ってくる。そして自分が、自分の世界が蹂躙されていく。自分の死という事実を知覚し、遠くから迫る敵の群れに絶望を見て、鉄と砂埃の臭いに血と帰る土を思い、疲弊した手で握る槍も重い。胃酸のようなすっぱい味がする。
 最後くらいは、平静になろう。
 僕は目を閉じ、項垂れて深呼吸を一つした。
 でも、多分、落ち着きなんかしないだろう。
 「大丈夫かい?」
 顔を上げ、目を開くと男が僕にそう聞いてきた。
 いったいどうやったのかすら分からないが、機械人形たちは地面に転がっていた。腕はもがれ、足は千切れとび、頭だけがゴロゴロとその場に転がっていた。あまりに一瞬の出来事で、僕はその男が何を言っているのかすら分からなかった。言葉が出ず、思考が追い付かない。
 「無理もないか。」
 そう言ってため息を一つ吐くと、その男は拳を柔らかく丸め、手話でも始めるかのように自身の前に構えた。
 僕の聴覚は彼の吸った一息に吸い込まれた。家の中でもないのにそんな音が聞こえる訳ないのだけれど、確かに僕の耳はその音だけを聞いた。その音だけがこの世の全て音でもあるかのように、僕にはその音が聞こえたのだ。そして、彼のその一息に引っ張られるように、彼は手を動かし始めた。
 雲が太陽を隠したのか、辺りは日陰に入ったようにやや暗くなった。そして、ボウッと突然現れた人の形をした淡い光。よく見えないけれど、青年のような背格好だった。
 そして、曲が始まった。ウッドベースのピチカートから始まる、怪しい音楽だった。マイナーな曲調で、リズムもない。どこかきな臭くもある。けれど、弦楽四重奏(カルテット)の音はあまりに温かかった。ベースの先導に合わせて、ベールのような何かに包まれる気分だった。そして、曲の中盤からメジャーなハーモニーが時折現れる。それこそ陽が射すように温かい響きで、運命の出会いでも演出するかのような音だった。
 気が付けばキャラメル色のゲフュルが周囲には浮かんでいた。具現化した感情、とでも言えばいいのだろうか。ゲフュルはその人の溢れる思いが形になったものだ。そしてそれが見えて、触れることで分かった。彼は僕の気持ちを察して、決して明るいだけの曲を選ばなかった。機械人形に襲われた恐怖を否定せず、同調するかのようなほの暗い曲を。それでいて安心感を与えられるような曲を、彼は奏でていてくれるのが分かる。
 その思いを僕は受け取ったような気がした。
 そんな事を想像していると、気が付けば聞き入っていた。そして気が付けば終わっていた。最期の和音の余韻はどこか苦いものだった。けれど、そこかしこに光るものがあったのも覚えている。コーヒーを飲んだ時と同じ感覚とでも言えばいいのだろうか。口の中には苦みが詰まっていて、しかしその残り香が空気を柔らかくする。そんな時間が流れていった。
 「どう、少しは落ち着いたかい?」
その男は曲が終わり、余韻に浸るには程よい4秒ほどの後に、そう聞いてきた。
 「あぁ。あんた、クラフツだったのか。」
 先ほどまでの恐怖が嘘のように平静だった。何も無かったかのように、僕は応えられた。
 「そうとも言えるし、そうとも言えない」
その男はそんな曖昧な答えを返した。後ろでほのかに揺らぐマイスターを従わせておきながら、そんなはぐらかすように答えた男に、僕は小馬鹿にされた気分になった。
 「ひとまず、礼を言うよ、助かった。」
臍を曲げたような、ややぶっきらぼうな答えしかできなかった。
 「礼には及ばないよ、私がしたくてしたことなんだから。」
確かにそうではあるのだろうけど、その返答は不思議だった。
 「あんた、名前は。」
 後ろのマイスターが姿勢を正し、一礼した。
 「アビー・ハートと言います。後の彼はヨハン。」
 その名前に耳を疑う。
 「アビー・ハートさん・・・」
 口角が緩み、彼は微かに微笑んだ。
 「そう、アビーでいいよ。」
 満面の笑みでそう言う彼に対して、真っ青な顔の僕は膝から崩れ落ちた。そして、その勢いのまま土下座し、声を張った。
 「無礼な発言、ご容赦くださいハート様。貴殿の容姿を存じていなかったとはいえ、『あんた』等と大変失礼な…」
 「いいからいいから、それ辞めてくれませんか」
 彼は笑いながら僕の懺悔を制止した。
 「しかし…」
 土下座しながらも、僕は酷く気まずい思いがした。アビー・ハート。通称ブックマン。彼は『本』を持つゆえに、そういわれていた。その本そのものが何であるかは詳しくは知らないけれども、機械人形が蔓延る今のこの国で、各町が平和であるのも彼のおかげだという。今でこそ違うものの、各町を束ね、一時の国家元首にも等しい存在だった人間だ。『失われた日』から英雄だ。そんな人が今目の前にいて、僕はその人を…。
 「まぁまぁ」
 「しかし…」
 「ならば君、名前はなんて言うんだい?」
 「アート、アート・フリーキーと申します。」
 「ならばアート君、僕は喉が渇いた。一曲演奏するのも楽じゃなくてね。だから、自動販売機で水を買ってきてくれないかい?勿論、君のお金でだ。そうしたら、君の罪悪感もはれるだろう?僕はここで待っているから、行ってきてくれ」
 「勿論です」
 僕はそう言うと、その場を駆けだした。自動販売機なんて今の世界、殆ど機能していないけれど、流石に自治政府内にあるのは知っていた。そこまで行かなければならないのは大変だったが、彼のアビーさんの頼みだ。僕はほぼ全速力で庁舎に向かった。
 その数分後、同じ場所に戻ってみた。結果だけを言えば、彼はいなくなっていた。ただ、微細なゲフュルの残り火だけがその場に在った。朗らかで、けれどどこか残念そうな色うぃ含んでいた。そんな気がした。そんな気がしたのだ。
  
 ミューズは音楽の神だという。そしてその名を冠したホールがここにはある。『沈黙の月
』より以前に建てられたもので、外壁はややくすんでいる。施設の大理石の畳は薄汚れていて、噴水も止まったままだった。樹が葉をつけたのもここ数年見ていない。
 勝手に維持されてしまうからこそ、そのまま自然に放置されてしまっているのだ。この国のどこのホールもそうだと聞いている。殆どの自治政府が財源不足が理由で、為すがままにされていた。人手も金も足りない。どうせ、ホールの中は守られている。いつまでも変わらぬまま、そこにあるのだから。それに滅多に使われないのだから、外観なんてどうでもいいということだった。
 僕はそこに毎日のように通い詰めている。街から捨てられようと、僕はこのホールと街が好きだった。家も道路を挟んで公園を跨ぎすぐだ。そしてなにより、ここは僕が育った場所だ。だからミューズにはいつまでも綺麗でいてもらいたい。そう思い、風に舞ってゴミが落ちていれば拾い、隙間に雑草が映えれば抜いていた。それくらいしかできないけれど、僕なりの使命であり、それが僕の日課だった。
 そして今日来てみたら、機械人形には入れないはずの聖域であるこの一帯に奴らがいて、 アビーさんと出会うことになった。奴らがどうしてここに入れたのかは分からない。でも、アビーさんがいなければ僕は人として死んでいただろう。
 にもかかわらず、僕はお礼ができていなかった。だからどうしても、お礼がしたい。彼の事だから恐らくこのホールに用事があるのだと思う。そうじゃなければこんな街に用はない。僕は公園を抜けホールを目指した。
 
 建物へ入るドアが開いている。ガラスは水垢だらけで、くすんでいる。今度はここも掃除しなくては。そしてドアが開いてるということは、やはり、この中にいるんだろう。
 緩い坂になった廊下を進み、一階客席の右手側から入ろうとした。そして、大きな木製の扉を一枚、二枚となんとか開けた。
 ホールの中に入ると人が二人いる。
 壇上にはアビーさん。僕と正反対の場所には金髪の青年が1人。
 「アキ君、落ち着いてくれ」
 アビーさんがその青年に向け、そう諭した。
 どうやら彼はアキというらしい。その顔は怒りに満ちている。怒っているのが傍からでも分かる。
--------------------------------------------------------------------
 「てめぇがキサを殺したも同然なんだ!」
 客席の中段から発したアキの怒号がホールに響く。それでもステージの上のアビーは顔色一つ変えない。さも私は然るべきことをしたという顔だった。
 「僕がキサを殺した?それは違う。能力のない僕が一体どうやってキサを助けられたというんだ。買いかぶりはよしてくれ。」
 静まりきったホールは全ての音を響かせた。舌打ちの音さえも、アキがホルダーからタクトを抜く音さえも。
 陽炎で歪んだような東雲色のイントレ(舞台装置の骨組み)が、ガガガガという激しい金属の衝突音を伴ってアキの背後で築かれた。イントレの完成と共に縦横2メートル四方に灯る16のリヒトが配され、鈍いスイッチ音と共に青白く光り出す。アキはその光を背にしてタクトを天井に向けていた。
 後光のように輝くその照明の中から霧のように現れたアキのマイスター。その不協和音の産声がホールを震わせた。言葉を持たないマイスターの空虚な叫びは、無人の会場の此処彼処に刺さる。そして、見えるモノには見えるその姿が、幽霊のように淡く輝き、且つ実体の質感を伴いアキの傍らに現れた。
 「クロード!ミンストレル!」
 アキが叫ぶ。
 その声と共に槍が現れ、クロードと呼ばれたそのマイスターは手を上げた。手から天井に向けて細い光の柱が出来上がると、『ミンストレル』と呼ばれたその光の槍が現れ、場内を一瞬明るくする。その槍の顕現と同時に、アキは天を指していた腕を振り下ろす。その動きとシンクロするようにクロードも槍を振り下ろした。槍は龍のように伸び、客席を跨いで一直線にアビーの下まで届いている。そしてその矛先は、アビーの鼻先で止まった。
「てめぇはキサを救えたんだ!貴様には能力があるだろう!」
 アキがタクトを抜いてから数秒にも満たない間のできごとだった。刃の残滓の風圧に舞うアビーの長髪。目と鼻の先の刃は、命を奪う凶器のようだ。それでも狂気のアキとは対照的に、アビーは顔色を変えず、何かを願いながらゆっくりと目を閉じ、緩やかに反駁する。
 「僕に能力があるといっても、僕は直接彼らと戦う術を持っているわけではない。力はある。だが、それは剣を取るための力ではない。家族が、友が、そして自分が。誰かの刃に切られぬよう、剣を取るか取らないかを決める力だ。そして、その剣を振るうのは僕ではなく、僕以外の人間だ。僕が持っているのはそういう能力だと知っているだろう。」
 その冷静さはアキの神経を逆撫でした。人の命を軽視するかのようなその態度が、正義を貫かぬ不遜さが気に食わない。今は目を開いてこちらを見据えるアビーのその顔は、まるで独裁者のようにさえ見える。そんな表情だった。
 身体を捩り、槍でアビーの左手を薙ぎ払うクロード。槍は腕をすり抜けた。血も出ることはない。何事もアビーの身体には起きていない。何をも損壊せず、破壊しない。しかし、激痛がアビーの一瞬のうめき声を引き出した。
 ミンストレルの一振りは切ることなく身体を斬る。アビーはまるで片腕をもがれた様な気分だった。光槍が通った痕は熱くひりつき、左利きの彼にとって、頁を捲るその左手を逸したことは痛手だ。
 「お前には痛くもなんともないだろう、アビー。お前様には。」
 アキは皮肉と慈愛を込めた声で問うた。タクトを持った腕を後ろに払い、クロードを数歩下がらせるアキ。槍を床につけ、門番のように黙するクロード。
 「まぁ、いい太刀筋なんじゃないでしょうか」 
 笑顔で、あるいは神妙な顔でアビーは応えた。切り落とされた腕の痛みに耐えながらも、弱みは見せないように笑った。
 その言葉に、いい気味だと言わんばかりにアキは壇上のアビーを見下ろした。鼻をならし、やや満足げな顔で、アビーの僅かな苦悶の表情を見下した。
 「だが、キサはもっと苦しんだ。」
 静かに語気を強め、ステージの上方に視線を向ける。ステージ裏に当たる二階席の両脇には、胸元で両手を握る天使の像。その中央に坐するパイプオルガンは、張り巡らされた管を集める鋼鉄の化け物の心臓のようだ。普段の荘厳さは消え、今はアキの怒りに感化されて、このホールは不気味な場所と変り果てていた。
 「あの機械人形と関わりを持ったばかりに、あんなことに…。怖かっただろう、痛かっただろう、キサ。」
 涙ぐむように独り言をつぶやくアキと、居た堪れない面持ちのアビー。アビーはやるかたなく、踵を返し、アキに背を向けた。
 「だが、お前はそんなキサを見殺しにした。助けられたモノを見殺しにしたんだ。」
 ランタービレ。腕をだらりとさげ、悲しげにアキは言った。
 「あぁ、そうだキサはクソみたいな貴様のせいで死んだんだ。わかるかクソ野郎!お前がキサを殺したんだ!」
 フェローチェ。急に荒々しくなる。罵声のような声が飛ぶ。
 「だいたい、なんでお前があの本を持っているんだ。どうしてお前が本の持ち主に選ばれたんだ。お前なんかが選ばれていいわけがないだろう。悪逆非道な、人間味のないお前が…」
 メノ・モッソ。それまでよりは遅く。つらつらと愚痴にも似た思いが垂れ流される。
「だから」
 リンフォンツァンド。急に強く。
 「キサの代わりにお前が死ね!」
 コン・フォーコ。滲み出した烈火のごとき怒りは再び決壊した。。
 「スティッシモ!」
 号令と共に瞬時に槍を構え、突進するクロード。その勢いでつむじ風が生まれ、微細な埃がリヒトの光を浴びて輝く。並ぶ席上を飛ぶクロードの軌跡は、薄暗いホールで箒星のようにアビーへ向かっていく。
 
 「テンポ・ジュスト」
 アビーの小さな一声が漏れると、クロードはアビーの2歩ほど前でピタリと静止した。まるで時間が止まったかのように、アビーの心臓に槍を突き立てようとする姿勢のまま、宙に留まっている。撫でるようなそよ風が、アビーに吹き付ける。
クロードの切先には、ヨハンがいた。柔和に笑い目を閉じて、柔らかく右手を矛に翳して、クロードを制止させていた。
アビーがタクトを持つ右手を上げる。それと同時に客席の椅子が一斉に開く音がすると、石膏でできたみたいな白い霊体がいつの間にか全ての客席を埋めていた。無表情な観客たちは、弥勒菩薩が纏うような袈裟を着て、微動だにしない。その姿は、全てを悟った、それこそまさしく菩薩のようだった。何の関心もなく、何の表情もない。全ては当然の帰結を迎え、全ては自然へ帰る。そうだということを知っているような観客ばかりだ。あまりにも淡々としているそれら一体一体の石膏像は、その白い顔をクロードに向けた。
「ユニゾン」
 アビーの一声で、2000席の大観衆が、宙で止まるクロードに弓を向け、構えた。バタッという席が畳まれる音で会場は一つになる。
「戻れクロ------------」
 アキの声をスポットライトの金属音が遮り、光がクロードを照らす。
「イナクティーレ(鋭く)」
 アビーのタクトが俊敏に空気を切り裂く。同時に、驟雨のような矢の喝采が起き始めた。風切り音鳴り止まぬ会場内。各々微動で沸き立つ客席。2000もの淡い光の矢が、一条の光となって其々壇上へ向かっていく。その軌跡は薄暗い会場内に光の扇を描いていた。
 半狂乱でタクトを振るアビーの背中には、狂気の中に燻る悲しみが滲み出ている。鋭い切れ味の高音が胸をせめぎ立て、渦巻く苦悩が重々しく腸に滲みる。短調の旋律を支えるふくよかな長調の和音。その中低音の温かさだけが、唯一の希望のように淡く光をともしていた。
 聞こえるのは懺悔の歌。またはレクイエム。そう、何もできない代わりに、アビーは思いのままにタクトを振る。伝わらないかもしれない思いを乗せて、声なき声を吐き続ける。悲しみと、この世の不条理さと、罪悪感の音がする。アビーが奏でているのは、そういう音楽だった。
 そんなアビーを背にしたヨハンはゆったりと構え、クロードを眺め続けている。幾千もの矢が刺さり続けるクロードを見続けている。ピアノの鍵盤の上に体を投げたようなクロードの悲鳴が何度も会場に木霊する。嘆きと、悔しさと、憤怒がクロードの調和だった。彼と、アキにとっての調和だった。それを感じるヨハンは、物憂げな目で、クロードの戦慄を聞くのだった。雑音でしかないその断末魔の一音すら受け止めるよう、感覚器官の全てを自由にしているのだろう。クロードから漏れ続ける血の色のようなゲフュルの全てを、ヨハンはその身に受け止めていた。
 矢の雨は未だに止まない。雨の降らぬ室内でずぶ濡れになているアビーは、タクトを振り続けた。汗のような水滴が飛び散る。いつまで続くのだろうかという疑念さえ浮かぶ、矢の雨と音の洪水だった。クロードは徐々に姿を保てなくなり、今は最早、人の形もしていない。矢じりに削られ続けて、人魂のように宙に浮いている。それでもなお、光の矢は彼を襲い身を削っていく。
 光線の一つが消え、また一つが消え始めると、急速に光は勢いを失っていった。放射状に広がっていた光矢の軌跡は畳まれて、すでに最期の一本となっている。
 その一本は、未だに壇上へと向かっている。それも、クロードだった光へ向けてではなく、指揮を執るアビーの下へ。弱く、くすんだ色の光子の矢は、アビーに届くことなく消滅している。それが分かってても弓を引くことを辞めない、1人のオーディエンス。無邪気で、無思慮で、感情だけが先行したその一矢を、意地だけで放っている。
 アビーを守るヨハンは溜息をついた。悲哀に満ちた目線を向けると、それは一瞬にして消え去った。
 踊り続けていたタクトは、振り子が止まるかのように速度を落とし続け、終には完全に止まった。終演、そして静寂。一息共にアビーがゆっくり後ろを振り返ると、ホールには誰もいなかった。彼のマイスター、ヨハンだけは壇上でクロードの残り火をかき集めていた。
 アキの姿もなかった。また、逃げたようだった。アビーの中で悔しさと苦々しさが綯交ぜになる。
 それでも、そんな空虚な空間に向かって、アビーはゆっくりと一礼した。今は霧散したヨハンをねぎらいながら、消滅したクロードを悼み、亡きキサを思いながら、深く頭を下げた。
 ホールに静寂が舞い降りると、アビーの視覚が鋭敏になる。壇上から見るホールは広い。万遍ない暖色の光が木の温かさを飾る。音を吸ったホールの木々は艶やかに見えた。視界は明るい。ここは素敵な場所だ。何度来ても、いいホールだった。アビーはそう思った。
 全てが終わったようだった。けれども、余韻はいつまでも頭に残り続けている。
 宙に手を翳し、掌を開閉する。漂う音色をかき集め、興奮の記憶をつむごうとする。しかし、掴むことは叶わなかった。
--------------------------------------------------------------
 壇上から降りて、扉に向かいながら、アビーは僕につぶやく。
 「いつからいたんだい、アート君」
 「盛り上がってきたあたりです。ここに来れば、貴方がいると思っていたので。」
 僕はそう、正直に答えた。不思議に思ったのか、彼は一瞬眉を寄せた。
 「なら、見苦しいところを見せてしまったね」
 はにかむアビーの笑顔はどこか痛々しかった。
 「アキ、彼は現実を見なきゃならない、冷静にならなきゃならない。今、彼とクロードを射たのは僕の意志ではない、人々の総意だ。」
 アビーさんは誰に言うともなく語りだした。そう言わなければ、彼がもたなかったのかもしれない。彼なりの罪悪感が彼を苛み、それに対する言い訳のようにさえ聞こえた。何故なら彼は今しがた、一人のマイスターを葬り、世界から一つの可能性を奪った。1人のクラフツから能力を消滅させ、アキという一人の青年の可能性を奪ったのだから。他にもまだあるのかもしれない。何せよ、1人の芸術家を殺したのだから、思うところは何かしらあるはずだった。『本』を持つ彼だからこそ、思うのだろう。僕は責めもしないのに、彼は懺悔の告白をするかのように語りだした。
「彼の気持ちもわかる。僕はキサを助けたかった。けれど、それが意味するところは人々の不幸だ。」
 「どうしてですか?」
 「僕の能力がそういうものだからさ」
 そう言うと、彼は右手で懐から一冊の本を取り出した。
 「僕にはヨハンがいるけれど、僕はクラフツではないんだ。」
 始めてみる本物に、僕の目は釘づけだった。
 「それが例の『本』ですか、アビーさん」
 「そう、これが『マジョリティー・デシジョン・ブック』、『多数決の本』だ。」
 何の変哲もなさそうな本であったが、ゲフュルの光子が漏れ出している。初めて見る虹色のゲフュルだった。
 「この本は、人々の意志で決まったことを具現化するんだ。皆が正しいと思ったことを現実にする。そしてその持ち主である僕は、その決断を目の前の人に叩きつける。そういう事をするのが、僕の役目だ。本を持つことになった僕の使命だ。だから僕は、何かを生み出すクラフツじゃあ決してない。」
 「なら、アキさんは、もといクロードは人々から拒絶されたんですね」
 アビーは渋い顔をした。
 「そうともいえる。けれど、彼の存在が無駄だったかと言えばそうじゃない。ほら、最後まで残り続けて僕を狙い続けていた霊体が1人いただろう?」
 「はい。」
 「あの霊体一つ一つはこの世界の、少なくともこの国の誰かであり全員の意志なんだ。だから、全員が僕の意志、というより本の死守を支持したけれど、あの意志だけは人の命を、キサの命を大切に思っていたんだ。」 
 アビーはその霊体がいた場所を遠い目で眺めている。
 「『本』が僕の手を離れ、機械人形たちの手に落ちたならば、この国は暴走するかもしれないからね。彼らが恐怖で人の気持ちを挫き、恐怖に震えた人々の意見を代弁して、その『本』で本当に正しいことを捻じ曲げるかもしれない。そうして、つまらない時代に、悲しい時代になるかもしれない。そうしたらたくさんの人が貧困に喘ぐだろうし、死ぬ者も増えるだろう。機械人形たちの脅威に対して為す術もなく。この国は滅亡する事だったあったかもしれない。」
 「僕も救えるものなら、キサを救いたかった。僕の、僕らの友達であるキサを。アキと結ばれていたキサを。」
 彼の身体からゲフュルが漏れ出していた。殆ど白い、淡い桃色のゲフュルだった。デフォルメされたみたいない顔だけのヨハンがいつの間にか現れて、僕と目があった。ヨハンは霊体の人差し指を口元に立てシーッと、アビーには言わないでという風な仕草をしていた。僕は最小限の動作で頷き、了解した。
 「それでも、『本』の護持とキサの命。僕にどちらかを選べというなら、僕には多くの人を守らなくてはならない義務がある。だから、見殺しにした。その汚名は受けよう。僕に力がないばかりに、見殺しにしたんだ。」
 一瞬の感情の高ぶりを呑み込みんだ後、再び平静に語る。
 「だが、感情ばかりの音に、美しさは生まれないよ。論理、もっと言えば技術と心理と、その二つが伴って音楽は生まれるんだ。感情だけの音楽は、最早快楽だ。かつて忌み嫌いもした、快楽だ。心地よいかも知れないけれど、そこには音楽を音楽たらしめる、練習や作曲といった苦悩にかけた時間はないだろう。出来る事しかやらない、できる事だけでいいや、で終わらした音楽はありふれたものになって、結局埋没して、忘れ去られるんだ。」
 「音楽はそうなってはならない。技術に偏っても、心理に偏ってもならないし、勿論、忘れ去られて欲しくもない。そんな音楽を作れるからこそ、クラフツはクラフツとして生かされている。マイスターを持つ者として、力を手に入れることができたんだ。」
 「正義は美しさと同様に、それぞれが感じるものだよ。過度な正義は人を苦しめる、そしてそのうちに正義さえも見失う。」
 「だから願わくば、僕は全ての人に、それぞれが美しいと思ってくれるモノを届けたい。それが人の理想を繋ぐなら、僕は世界を救えるかもしれない。僕がこの本で『多数決』を迫る傍ら、ヨハンという名手を天より与えられたのはその為だと思っているよ。」
 僕のことなどお構いなしに、滔々と語り続けたアビーは不意に黙り込んだ。
 「さようなら、クロード。転生した君が、愛あるクラフツの下に幸福を奏でられんことを。」
 「さようなら、キサ。無力だった僕を許してくれ、多くを背負わなければならない僕を恨んでくれ。」
 「また会おう、アキ。いつの日か君に届く音を作れるよう、僕は向かい続けるよ。同じ景色を、それぞれの目で感じられるようになるまで。」
 「------------------クラフツ、アビー・ハートは誓う。」
 「アビーさん、すみません、僕のこと忘れていませんか」
僕は思わず口を挟んでしまった。人魂みたいなヨハンが、僕に止めるよう急かしていたのだもの、仕方ない。
 「うわ、ビックリした!」
 本当に驚いている様子を見せるアビー。本当に僕のことなんか忘れていたらしい。猫みたいに頭を掻き始めて、大げさに恥ずかしがる仕草を見せる。
 「恥ずかしいからもっと早く声をかけてくれよ、アート君。」
 彼はやや肩を落としてごねるように言った。
 「いや、すみません、どこで話しかけていいのやら…。」
 「まぁそれが君の能力だから仕方ないね。」
 アビーさんはそう言ったが、僕にはなんのことか分からなかった。
 「しかし、恥ずかしいと思うクセに良くそんな言葉がどんどん出てきますね。」
 全てを聞いていた僕は茶化すように言った。しかし、アビーさんは至って気に留める様子もなく、笑いながら、至って真面目な回答で応えた。
 「それが大手を振って言えるからこそ、僕らは芸術に挑み続けてるんじゃないか、アート君」
 その朗かな返答に、僕は何だか恥ずかしい質問をしたような気分にさえなった。
 
 ホールを出ると、彼が「ちょっと付き合ってくれるかい?」と聞いたので、僕らは公園をゆっくり散歩し始めた。そよ風が吹き、ふわりとした雲が浮かんでいた。良い天気だった。
 僕と歩きながら、アビーさんのハミングがずっと鳴っている。
 「ところでアビーさん、どうしてクラフツでもないのに、ヨハンはどうして曲を奏でられるんですか。」
 「僕が奏でるのはだいたい人のコピー、それをヨハンが勝手に再生してるだけだよ、僕の重みを乗せてね。」
 「オリジナルは作らないんですか?」
 「最近やっと『エリーの為に』をピアノで弾けるようになったくらいだよ。しかもおそーいテンポで。バイオリンなんか音すら合わない、管楽器なんか音すらならない。ギターも試したけど、Fが抑えられなくて。だから音楽を作ることはできないんだよ、僕は。」
 そういうと、悔しそうに、彼は笑っていた。
 「へぇー」
 「まぁ、練習量がたりないだけなのだけど、人には得手不得手があるわけさ。」
 そういうと僕の車椅子を押しながら、アビーさんは知ってる曲を信じられないくらい上手い口笛で、何曲も聞かせてくれた。ヨハンがごく小さな音で、微かに伴奏をつけている。