2015年2月27日金曜日

ミューズの聖域にて


 こんなところにどうして機械人形が。しかも、何人も。ここは不可侵の場所なのに。この聖域もとうとう汚されてしまったのだろうか。
 そう思った時にはもう、奴らは僕を認識してゆっくりと迫ってきた。
 逃げなきゃ、と思い踵を返すと、そちらの方向にもすでに数メートル先まで機械人形が二体迫ってきていた。もう、僕の速度じゃ逃げ切れなかった。
 近づいてくる奴らを見ながら、僕はどう戦おうか考えていた。けれど、数が多すぎる。一体一体のシュミレーションならば頭の中で描けても、相手の数が多すぎてどのプランも成功しそうになかった。
 考えろ、考えろ。
 双方の相手の接近を目で確認しながら、そう自分に言い続けても何一つ明暗が浮かばない。そうしてる間にもどんどん奴らは近づいてきた。心臓の鼓動が速い。脳の血管が詰まってるみたいに息苦しい。血の気が引き、手が震える。秋口だというのに酷く寒さを感じた。 
 奴らはとうとう僕を取り囲んだ。八方ふさがりとはまさにこの状況。四面楚歌。
 古代の人間が聞いた「楚の歌」とはどんな歌だったんだろうか。きっと悲しい歌ではないのだろう。雄雄しく猛々しい歌だったのだろう。祭りの時に聞くような、男の歌だったのだろう。最期に聞く曲としては、酷く怖いモノだったに違いない。一丸となって唸る歌。自分たちを征服する喜びで唄う歌。そんなものが人の声だけで奏でられ、足音の質量を伴って迫ってくる。そして自分が、自分の世界が蹂躙されていく。自分の死という事実を知覚し、遠くから迫る敵の群れに絶望を見て、鉄と砂埃の臭いに血と帰る土を思い、疲弊した手で握る槍も重い。胃酸のようなすっぱい味がする。
 最後くらいは、平静になろう。
 僕は目を閉じ、項垂れて深呼吸を一つした。
 でも、多分、落ち着きなんかしないだろう。
 「大丈夫かい?」
 顔を上げ、目を開くと男が僕にそう聞いてきた。
 いったいどうやったのかすら分からないが、機械人形たちは地面に転がっていた。腕はもがれ、足は千切れとび、頭だけがゴロゴロとその場に転がっていた。あまりに一瞬の出来事で、僕はその男が何を言っているのかすら分からなかった。言葉が出ず、思考が追い付かない。
 「無理もないか。」
 そう言ってため息を一つ吐くと、その男は拳を柔らかく丸め、手話でも始めるかのように自身の前に構えた。
 僕の聴覚は彼の吸った一息に吸い込まれた。家の中でもないのにそんな音が聞こえる訳ないのだけれど、確かに僕の耳はその音だけを聞いた。その音だけがこの世の全て音でもあるかのように、僕にはその音が聞こえたのだ。そして、彼のその一息に引っ張られるように、彼は手を動かし始めた。
 雲が太陽を隠したのか、辺りは日陰に入ったようにやや暗くなった。そして、ボウッと突然現れた人の形をした淡い光。よく見えないけれど、青年のような背格好だった。
 そして、曲が始まった。ウッドベースのピチカートから始まる、怪しい音楽だった。マイナーな曲調で、リズムもない。どこかきな臭くもある。けれど、弦楽四重奏(カルテット)の音はあまりに温かかった。ベースの先導に合わせて、ベールのような何かに包まれる気分だった。そして、曲の中盤からメジャーなハーモニーが時折現れる。それこそ陽が射すように温かい響きで、運命の出会いでも演出するかのような音だった。
 気が付けばキャラメル色のゲフュルが周囲には浮かんでいた。具現化した感情、とでも言えばいいのだろうか。ゲフュルはその人の溢れる思いが形になったものだ。そしてそれが見えて、触れることで分かった。彼は僕の気持ちを察して、決して明るいだけの曲を選ばなかった。機械人形に襲われた恐怖を否定せず、同調するかのようなほの暗い曲を。それでいて安心感を与えられるような曲を、彼は奏でていてくれるのが分かる。
 その思いを僕は受け取ったような気がした。
 そんな事を想像していると、気が付けば聞き入っていた。そして気が付けば終わっていた。最期の和音の余韻はどこか苦いものだった。けれど、そこかしこに光るものがあったのも覚えている。コーヒーを飲んだ時と同じ感覚とでも言えばいいのだろうか。口の中には苦みが詰まっていて、しかしその残り香が空気を柔らかくする。そんな時間が流れていった。
 「どう、少しは落ち着いたかい?」
その男は曲が終わり、余韻に浸るには程よい4秒ほどの後に、そう聞いてきた。
 「あぁ。あんた、クラフツだったのか。」
 先ほどまでの恐怖が嘘のように平静だった。何も無かったかのように、僕は応えられた。
 「そうとも言えるし、そうとも言えない」
その男はそんな曖昧な答えを返した。後ろでほのかに揺らぐマイスターを従わせておきながら、そんなはぐらかすように答えた男に、僕は小馬鹿にされた気分になった。
 「ひとまず、礼を言うよ、助かった。」
臍を曲げたような、ややぶっきらぼうな答えしかできなかった。
 「礼には及ばないよ、私がしたくてしたことなんだから。」
確かにそうではあるのだろうけど、その返答は不思議だった。
 「あんた、名前は。」
 後ろのマイスターが姿勢を正し、一礼した。
 「アビー・ハートと言います。後の彼はヨハン。」
 その名前に耳を疑う。
 「アビー・ハートさん・・・」
 口角が緩み、彼は微かに微笑んだ。
 「そう、アビーでいいよ。」
 満面の笑みでそう言う彼に対して、真っ青な顔の僕は膝から崩れ落ちた。そして、その勢いのまま土下座し、声を張った。
 「無礼な発言、ご容赦くださいハート様。貴殿の容姿を存じていなかったとはいえ、『あんた』等と大変失礼な…」
 「いいからいいから、それ辞めてくれませんか」
 彼は笑いながら僕の懺悔を制止した。
 「しかし…」
 土下座しながらも、僕は酷く気まずい思いがした。アビー・ハート。通称ブックマン。彼は『本』を持つゆえに、そういわれていた。その本そのものが何であるかは詳しくは知らないけれども、機械人形が蔓延る今のこの国で、各町が平和であるのも彼のおかげだという。今でこそ違うものの、各町を束ね、一時の国家元首にも等しい存在だった人間だ。『失われた日』から英雄だ。そんな人が今目の前にいて、僕はその人を…。
 「まぁまぁ」
 「しかし…」
 「ならば君、名前はなんて言うんだい?」
 「アート、アート・フリーキーと申します。」
 「ならばアート君、僕は喉が渇いた。一曲演奏するのも楽じゃなくてね。だから、自動販売機で水を買ってきてくれないかい?勿論、君のお金でだ。そうしたら、君の罪悪感もはれるだろう?僕はここで待っているから、行ってきてくれ」
 「勿論です」
 僕はそう言うと、その場を駆けだした。自動販売機なんて今の世界、殆ど機能していないけれど、流石に自治政府内にあるのは知っていた。そこまで行かなければならないのは大変だったが、彼のアビーさんの頼みだ。僕はほぼ全速力で庁舎に向かった。
 その数分後、同じ場所に戻ってみた。結果だけを言えば、彼はいなくなっていた。ただ、微細なゲフュルの残り火だけがその場に在った。朗らかで、けれどどこか残念そうな色うぃ含んでいた。そんな気がした。そんな気がしたのだ。
  
 ミューズは音楽の神だという。そしてその名を冠したホールがここにはある。『沈黙の月
』より以前に建てられたもので、外壁はややくすんでいる。施設の大理石の畳は薄汚れていて、噴水も止まったままだった。樹が葉をつけたのもここ数年見ていない。
 勝手に維持されてしまうからこそ、そのまま自然に放置されてしまっているのだ。この国のどこのホールもそうだと聞いている。殆どの自治政府が財源不足が理由で、為すがままにされていた。人手も金も足りない。どうせ、ホールの中は守られている。いつまでも変わらぬまま、そこにあるのだから。それに滅多に使われないのだから、外観なんてどうでもいいということだった。
 僕はそこに毎日のように通い詰めている。街から捨てられようと、僕はこのホールと街が好きだった。家も道路を挟んで公園を跨ぎすぐだ。そしてなにより、ここは僕が育った場所だ。だからミューズにはいつまでも綺麗でいてもらいたい。そう思い、風に舞ってゴミが落ちていれば拾い、隙間に雑草が映えれば抜いていた。それくらいしかできないけれど、僕なりの使命であり、それが僕の日課だった。
 そして今日来てみたら、機械人形には入れないはずの聖域であるこの一帯に奴らがいて、 アビーさんと出会うことになった。奴らがどうしてここに入れたのかは分からない。でも、アビーさんがいなければ僕は人として死んでいただろう。
 にもかかわらず、僕はお礼ができていなかった。だからどうしても、お礼がしたい。彼の事だから恐らくこのホールに用事があるのだと思う。そうじゃなければこんな街に用はない。僕は公園を抜けホールを目指した。
 
 建物へ入るドアが開いている。ガラスは水垢だらけで、くすんでいる。今度はここも掃除しなくては。そしてドアが開いてるということは、やはり、この中にいるんだろう。
 緩い坂になった廊下を進み、一階客席の右手側から入ろうとした。そして、大きな木製の扉を一枚、二枚となんとか開けた。
 ホールの中に入ると人が二人いる。
 壇上にはアビーさん。僕と正反対の場所には金髪の青年が1人。
 「アキ君、落ち着いてくれ」
 アビーさんがその青年に向け、そう諭した。
 どうやら彼はアキというらしい。その顔は怒りに満ちている。怒っているのが傍からでも分かる。
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 「てめぇがキサを殺したも同然なんだ!」
 客席の中段から発したアキの怒号がホールに響く。それでもステージの上のアビーは顔色一つ変えない。さも私は然るべきことをしたという顔だった。
 「僕がキサを殺した?それは違う。能力のない僕が一体どうやってキサを助けられたというんだ。買いかぶりはよしてくれ。」
 静まりきったホールは全ての音を響かせた。舌打ちの音さえも、アキがホルダーからタクトを抜く音さえも。
 陽炎で歪んだような東雲色のイントレ(舞台装置の骨組み)が、ガガガガという激しい金属の衝突音を伴ってアキの背後で築かれた。イントレの完成と共に縦横2メートル四方に灯る16のリヒトが配され、鈍いスイッチ音と共に青白く光り出す。アキはその光を背にしてタクトを天井に向けていた。
 後光のように輝くその照明の中から霧のように現れたアキのマイスター。その不協和音の産声がホールを震わせた。言葉を持たないマイスターの空虚な叫びは、無人の会場の此処彼処に刺さる。そして、見えるモノには見えるその姿が、幽霊のように淡く輝き、且つ実体の質感を伴いアキの傍らに現れた。
 「クロード!ミンストレル!」
 アキが叫ぶ。
 その声と共に槍が現れ、クロードと呼ばれたそのマイスターは手を上げた。手から天井に向けて細い光の柱が出来上がると、『ミンストレル』と呼ばれたその光の槍が現れ、場内を一瞬明るくする。その槍の顕現と同時に、アキは天を指していた腕を振り下ろす。その動きとシンクロするようにクロードも槍を振り下ろした。槍は龍のように伸び、客席を跨いで一直線にアビーの下まで届いている。そしてその矛先は、アビーの鼻先で止まった。
「てめぇはキサを救えたんだ!貴様には能力があるだろう!」
 アキがタクトを抜いてから数秒にも満たない間のできごとだった。刃の残滓の風圧に舞うアビーの長髪。目と鼻の先の刃は、命を奪う凶器のようだ。それでも狂気のアキとは対照的に、アビーは顔色を変えず、何かを願いながらゆっくりと目を閉じ、緩やかに反駁する。
 「僕に能力があるといっても、僕は直接彼らと戦う術を持っているわけではない。力はある。だが、それは剣を取るための力ではない。家族が、友が、そして自分が。誰かの刃に切られぬよう、剣を取るか取らないかを決める力だ。そして、その剣を振るうのは僕ではなく、僕以外の人間だ。僕が持っているのはそういう能力だと知っているだろう。」
 その冷静さはアキの神経を逆撫でした。人の命を軽視するかのようなその態度が、正義を貫かぬ不遜さが気に食わない。今は目を開いてこちらを見据えるアビーのその顔は、まるで独裁者のようにさえ見える。そんな表情だった。
 身体を捩り、槍でアビーの左手を薙ぎ払うクロード。槍は腕をすり抜けた。血も出ることはない。何事もアビーの身体には起きていない。何をも損壊せず、破壊しない。しかし、激痛がアビーの一瞬のうめき声を引き出した。
 ミンストレルの一振りは切ることなく身体を斬る。アビーはまるで片腕をもがれた様な気分だった。光槍が通った痕は熱くひりつき、左利きの彼にとって、頁を捲るその左手を逸したことは痛手だ。
 「お前には痛くもなんともないだろう、アビー。お前様には。」
 アキは皮肉と慈愛を込めた声で問うた。タクトを持った腕を後ろに払い、クロードを数歩下がらせるアキ。槍を床につけ、門番のように黙するクロード。
 「まぁ、いい太刀筋なんじゃないでしょうか」 
 笑顔で、あるいは神妙な顔でアビーは応えた。切り落とされた腕の痛みに耐えながらも、弱みは見せないように笑った。
 その言葉に、いい気味だと言わんばかりにアキは壇上のアビーを見下ろした。鼻をならし、やや満足げな顔で、アビーの僅かな苦悶の表情を見下した。
 「だが、キサはもっと苦しんだ。」
 静かに語気を強め、ステージの上方に視線を向ける。ステージ裏に当たる二階席の両脇には、胸元で両手を握る天使の像。その中央に坐するパイプオルガンは、張り巡らされた管を集める鋼鉄の化け物の心臓のようだ。普段の荘厳さは消え、今はアキの怒りに感化されて、このホールは不気味な場所と変り果てていた。
 「あの機械人形と関わりを持ったばかりに、あんなことに…。怖かっただろう、痛かっただろう、キサ。」
 涙ぐむように独り言をつぶやくアキと、居た堪れない面持ちのアビー。アビーはやるかたなく、踵を返し、アキに背を向けた。
 「だが、お前はそんなキサを見殺しにした。助けられたモノを見殺しにしたんだ。」
 ランタービレ。腕をだらりとさげ、悲しげにアキは言った。
 「あぁ、そうだキサはクソみたいな貴様のせいで死んだんだ。わかるかクソ野郎!お前がキサを殺したんだ!」
 フェローチェ。急に荒々しくなる。罵声のような声が飛ぶ。
 「だいたい、なんでお前があの本を持っているんだ。どうしてお前が本の持ち主に選ばれたんだ。お前なんかが選ばれていいわけがないだろう。悪逆非道な、人間味のないお前が…」
 メノ・モッソ。それまでよりは遅く。つらつらと愚痴にも似た思いが垂れ流される。
「だから」
 リンフォンツァンド。急に強く。
 「キサの代わりにお前が死ね!」
 コン・フォーコ。滲み出した烈火のごとき怒りは再び決壊した。。
 「スティッシモ!」
 号令と共に瞬時に槍を構え、突進するクロード。その勢いでつむじ風が生まれ、微細な埃がリヒトの光を浴びて輝く。並ぶ席上を飛ぶクロードの軌跡は、薄暗いホールで箒星のようにアビーへ向かっていく。
 
 「テンポ・ジュスト」
 アビーの小さな一声が漏れると、クロードはアビーの2歩ほど前でピタリと静止した。まるで時間が止まったかのように、アビーの心臓に槍を突き立てようとする姿勢のまま、宙に留まっている。撫でるようなそよ風が、アビーに吹き付ける。
クロードの切先には、ヨハンがいた。柔和に笑い目を閉じて、柔らかく右手を矛に翳して、クロードを制止させていた。
アビーがタクトを持つ右手を上げる。それと同時に客席の椅子が一斉に開く音がすると、石膏でできたみたいな白い霊体がいつの間にか全ての客席を埋めていた。無表情な観客たちは、弥勒菩薩が纏うような袈裟を着て、微動だにしない。その姿は、全てを悟った、それこそまさしく菩薩のようだった。何の関心もなく、何の表情もない。全ては当然の帰結を迎え、全ては自然へ帰る。そうだということを知っているような観客ばかりだ。あまりにも淡々としているそれら一体一体の石膏像は、その白い顔をクロードに向けた。
「ユニゾン」
 アビーの一声で、2000席の大観衆が、宙で止まるクロードに弓を向け、構えた。バタッという席が畳まれる音で会場は一つになる。
「戻れクロ------------」
 アキの声をスポットライトの金属音が遮り、光がクロードを照らす。
「イナクティーレ(鋭く)」
 アビーのタクトが俊敏に空気を切り裂く。同時に、驟雨のような矢の喝采が起き始めた。風切り音鳴り止まぬ会場内。各々微動で沸き立つ客席。2000もの淡い光の矢が、一条の光となって其々壇上へ向かっていく。その軌跡は薄暗い会場内に光の扇を描いていた。
 半狂乱でタクトを振るアビーの背中には、狂気の中に燻る悲しみが滲み出ている。鋭い切れ味の高音が胸をせめぎ立て、渦巻く苦悩が重々しく腸に滲みる。短調の旋律を支えるふくよかな長調の和音。その中低音の温かさだけが、唯一の希望のように淡く光をともしていた。
 聞こえるのは懺悔の歌。またはレクイエム。そう、何もできない代わりに、アビーは思いのままにタクトを振る。伝わらないかもしれない思いを乗せて、声なき声を吐き続ける。悲しみと、この世の不条理さと、罪悪感の音がする。アビーが奏でているのは、そういう音楽だった。
 そんなアビーを背にしたヨハンはゆったりと構え、クロードを眺め続けている。幾千もの矢が刺さり続けるクロードを見続けている。ピアノの鍵盤の上に体を投げたようなクロードの悲鳴が何度も会場に木霊する。嘆きと、悔しさと、憤怒がクロードの調和だった。彼と、アキにとっての調和だった。それを感じるヨハンは、物憂げな目で、クロードの戦慄を聞くのだった。雑音でしかないその断末魔の一音すら受け止めるよう、感覚器官の全てを自由にしているのだろう。クロードから漏れ続ける血の色のようなゲフュルの全てを、ヨハンはその身に受け止めていた。
 矢の雨は未だに止まない。雨の降らぬ室内でずぶ濡れになているアビーは、タクトを振り続けた。汗のような水滴が飛び散る。いつまで続くのだろうかという疑念さえ浮かぶ、矢の雨と音の洪水だった。クロードは徐々に姿を保てなくなり、今は最早、人の形もしていない。矢じりに削られ続けて、人魂のように宙に浮いている。それでもなお、光の矢は彼を襲い身を削っていく。
 光線の一つが消え、また一つが消え始めると、急速に光は勢いを失っていった。放射状に広がっていた光矢の軌跡は畳まれて、すでに最期の一本となっている。
 その一本は、未だに壇上へと向かっている。それも、クロードだった光へ向けてではなく、指揮を執るアビーの下へ。弱く、くすんだ色の光子の矢は、アビーに届くことなく消滅している。それが分かってても弓を引くことを辞めない、1人のオーディエンス。無邪気で、無思慮で、感情だけが先行したその一矢を、意地だけで放っている。
 アビーを守るヨハンは溜息をついた。悲哀に満ちた目線を向けると、それは一瞬にして消え去った。
 踊り続けていたタクトは、振り子が止まるかのように速度を落とし続け、終には完全に止まった。終演、そして静寂。一息共にアビーがゆっくり後ろを振り返ると、ホールには誰もいなかった。彼のマイスター、ヨハンだけは壇上でクロードの残り火をかき集めていた。
 アキの姿もなかった。また、逃げたようだった。アビーの中で悔しさと苦々しさが綯交ぜになる。
 それでも、そんな空虚な空間に向かって、アビーはゆっくりと一礼した。今は霧散したヨハンをねぎらいながら、消滅したクロードを悼み、亡きキサを思いながら、深く頭を下げた。
 ホールに静寂が舞い降りると、アビーの視覚が鋭敏になる。壇上から見るホールは広い。万遍ない暖色の光が木の温かさを飾る。音を吸ったホールの木々は艶やかに見えた。視界は明るい。ここは素敵な場所だ。何度来ても、いいホールだった。アビーはそう思った。
 全てが終わったようだった。けれども、余韻はいつまでも頭に残り続けている。
 宙に手を翳し、掌を開閉する。漂う音色をかき集め、興奮の記憶をつむごうとする。しかし、掴むことは叶わなかった。
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 壇上から降りて、扉に向かいながら、アビーは僕につぶやく。
 「いつからいたんだい、アート君」
 「盛り上がってきたあたりです。ここに来れば、貴方がいると思っていたので。」
 僕はそう、正直に答えた。不思議に思ったのか、彼は一瞬眉を寄せた。
 「なら、見苦しいところを見せてしまったね」
 はにかむアビーの笑顔はどこか痛々しかった。
 「アキ、彼は現実を見なきゃならない、冷静にならなきゃならない。今、彼とクロードを射たのは僕の意志ではない、人々の総意だ。」
 アビーさんは誰に言うともなく語りだした。そう言わなければ、彼がもたなかったのかもしれない。彼なりの罪悪感が彼を苛み、それに対する言い訳のようにさえ聞こえた。何故なら彼は今しがた、一人のマイスターを葬り、世界から一つの可能性を奪った。1人のクラフツから能力を消滅させ、アキという一人の青年の可能性を奪ったのだから。他にもまだあるのかもしれない。何せよ、1人の芸術家を殺したのだから、思うところは何かしらあるはずだった。『本』を持つ彼だからこそ、思うのだろう。僕は責めもしないのに、彼は懺悔の告白をするかのように語りだした。
「彼の気持ちもわかる。僕はキサを助けたかった。けれど、それが意味するところは人々の不幸だ。」
 「どうしてですか?」
 「僕の能力がそういうものだからさ」
 そう言うと、彼は右手で懐から一冊の本を取り出した。
 「僕にはヨハンがいるけれど、僕はクラフツではないんだ。」
 始めてみる本物に、僕の目は釘づけだった。
 「それが例の『本』ですか、アビーさん」
 「そう、これが『マジョリティー・デシジョン・ブック』、『多数決の本』だ。」
 何の変哲もなさそうな本であったが、ゲフュルの光子が漏れ出している。初めて見る虹色のゲフュルだった。
 「この本は、人々の意志で決まったことを具現化するんだ。皆が正しいと思ったことを現実にする。そしてその持ち主である僕は、その決断を目の前の人に叩きつける。そういう事をするのが、僕の役目だ。本を持つことになった僕の使命だ。だから僕は、何かを生み出すクラフツじゃあ決してない。」
 「なら、アキさんは、もといクロードは人々から拒絶されたんですね」
 アビーは渋い顔をした。
 「そうともいえる。けれど、彼の存在が無駄だったかと言えばそうじゃない。ほら、最後まで残り続けて僕を狙い続けていた霊体が1人いただろう?」
 「はい。」
 「あの霊体一つ一つはこの世界の、少なくともこの国の誰かであり全員の意志なんだ。だから、全員が僕の意志、というより本の死守を支持したけれど、あの意志だけは人の命を、キサの命を大切に思っていたんだ。」 
 アビーはその霊体がいた場所を遠い目で眺めている。
 「『本』が僕の手を離れ、機械人形たちの手に落ちたならば、この国は暴走するかもしれないからね。彼らが恐怖で人の気持ちを挫き、恐怖に震えた人々の意見を代弁して、その『本』で本当に正しいことを捻じ曲げるかもしれない。そうして、つまらない時代に、悲しい時代になるかもしれない。そうしたらたくさんの人が貧困に喘ぐだろうし、死ぬ者も増えるだろう。機械人形たちの脅威に対して為す術もなく。この国は滅亡する事だったあったかもしれない。」
 「僕も救えるものなら、キサを救いたかった。僕の、僕らの友達であるキサを。アキと結ばれていたキサを。」
 彼の身体からゲフュルが漏れ出していた。殆ど白い、淡い桃色のゲフュルだった。デフォルメされたみたいない顔だけのヨハンがいつの間にか現れて、僕と目があった。ヨハンは霊体の人差し指を口元に立てシーッと、アビーには言わないでという風な仕草をしていた。僕は最小限の動作で頷き、了解した。
 「それでも、『本』の護持とキサの命。僕にどちらかを選べというなら、僕には多くの人を守らなくてはならない義務がある。だから、見殺しにした。その汚名は受けよう。僕に力がないばかりに、見殺しにしたんだ。」
 一瞬の感情の高ぶりを呑み込みんだ後、再び平静に語る。
 「だが、感情ばかりの音に、美しさは生まれないよ。論理、もっと言えば技術と心理と、その二つが伴って音楽は生まれるんだ。感情だけの音楽は、最早快楽だ。かつて忌み嫌いもした、快楽だ。心地よいかも知れないけれど、そこには音楽を音楽たらしめる、練習や作曲といった苦悩にかけた時間はないだろう。出来る事しかやらない、できる事だけでいいや、で終わらした音楽はありふれたものになって、結局埋没して、忘れ去られるんだ。」
 「音楽はそうなってはならない。技術に偏っても、心理に偏ってもならないし、勿論、忘れ去られて欲しくもない。そんな音楽を作れるからこそ、クラフツはクラフツとして生かされている。マイスターを持つ者として、力を手に入れることができたんだ。」
 「正義は美しさと同様に、それぞれが感じるものだよ。過度な正義は人を苦しめる、そしてそのうちに正義さえも見失う。」
 「だから願わくば、僕は全ての人に、それぞれが美しいと思ってくれるモノを届けたい。それが人の理想を繋ぐなら、僕は世界を救えるかもしれない。僕がこの本で『多数決』を迫る傍ら、ヨハンという名手を天より与えられたのはその為だと思っているよ。」
 僕のことなどお構いなしに、滔々と語り続けたアビーは不意に黙り込んだ。
 「さようなら、クロード。転生した君が、愛あるクラフツの下に幸福を奏でられんことを。」
 「さようなら、キサ。無力だった僕を許してくれ、多くを背負わなければならない僕を恨んでくれ。」
 「また会おう、アキ。いつの日か君に届く音を作れるよう、僕は向かい続けるよ。同じ景色を、それぞれの目で感じられるようになるまで。」
 「------------------クラフツ、アビー・ハートは誓う。」
 「アビーさん、すみません、僕のこと忘れていませんか」
僕は思わず口を挟んでしまった。人魂みたいなヨハンが、僕に止めるよう急かしていたのだもの、仕方ない。
 「うわ、ビックリした!」
 本当に驚いている様子を見せるアビー。本当に僕のことなんか忘れていたらしい。猫みたいに頭を掻き始めて、大げさに恥ずかしがる仕草を見せる。
 「恥ずかしいからもっと早く声をかけてくれよ、アート君。」
 彼はやや肩を落としてごねるように言った。
 「いや、すみません、どこで話しかけていいのやら…。」
 「まぁそれが君の能力だから仕方ないね。」
 アビーさんはそう言ったが、僕にはなんのことか分からなかった。
 「しかし、恥ずかしいと思うクセに良くそんな言葉がどんどん出てきますね。」
 全てを聞いていた僕は茶化すように言った。しかし、アビーさんは至って気に留める様子もなく、笑いながら、至って真面目な回答で応えた。
 「それが大手を振って言えるからこそ、僕らは芸術に挑み続けてるんじゃないか、アート君」
 その朗かな返答に、僕は何だか恥ずかしい質問をしたような気分にさえなった。
 
 ホールを出ると、彼が「ちょっと付き合ってくれるかい?」と聞いたので、僕らは公園をゆっくり散歩し始めた。そよ風が吹き、ふわりとした雲が浮かんでいた。良い天気だった。
 僕と歩きながら、アビーさんのハミングがずっと鳴っている。
 「ところでアビーさん、どうしてクラフツでもないのに、ヨハンはどうして曲を奏でられるんですか。」
 「僕が奏でるのはだいたい人のコピー、それをヨハンが勝手に再生してるだけだよ、僕の重みを乗せてね。」
 「オリジナルは作らないんですか?」
 「最近やっと『エリーの為に』をピアノで弾けるようになったくらいだよ。しかもおそーいテンポで。バイオリンなんか音すら合わない、管楽器なんか音すらならない。ギターも試したけど、Fが抑えられなくて。だから音楽を作ることはできないんだよ、僕は。」
 そういうと、悔しそうに、彼は笑っていた。
 「へぇー」
 「まぁ、練習量がたりないだけなのだけど、人には得手不得手があるわけさ。」
 そういうと僕の車椅子を押しながら、アビーさんは知ってる曲を信じられないくらい上手い口笛で、何曲も聞かせてくれた。ヨハンがごく小さな音で、微かに伴奏をつけている。