急遽休みになったので、心が叫びたがってるんだ、二周目見てきました。
゙必要ない゙とがいらない゛とか人から言われたことがある人は、響くアニメだと思います。
「災厄からの救い」
自分の存在が災厄だと思ったことありますか?自分のせいで人が不幸になり、自分のせいで煩わしくなったり苛立たせたり。そんな風に人を思わせる自分ば災厄゛で゙最悪゛だと思うことはありますか?
自分は毎日のように思っています。
僕が部下じゃなかったら、僕がこの家にいなかったら、僕が僕という人間じゃなかったら…とか毎日そんなこと考えてしまいます。
そうならないために、努力はしなければなりません(なかなか報われないものではありますが)。その努力を見ていてくれる人が、この世界には存在するということを感じさせてくれるアニメだという一つの見方もできると思いました。
例えば主人公、成瀬順を多くの級友が認めているのばがんばっている゛ことです。彼女の才能とかではありません。
何かを伝えようと必死になってる順ちゃんをもっと他の皆に見てもらいたい、という思いが周りの人達から溢れてくるのは素敵な゙優しさ゛だと思います。
あともう一つの例として、田崎君の友人、三嶋君が彼を庇う姿にも同じようなものを感じます。
あとは、坂上君が成瀬順を庇うところもですね。
いずれにせよ、本人が知らない魅力や努力というものを他人が知っているという事実を描いてる気がしてならないのです。
自分の知らない魅力、努力。(もちろん欠点も)
これって他人と関わらなければ分からないんですよね。
゙世界が広がる゛ってこういうことを言うんじゃないかと、思います。
そうして、世界が広がって、人は救われるのです。
誰かが私を見てくれて、それを好きだと言ってくれて、罪悪感から幾分か解放され、世界に居場所を見つけて、人は初めて救われるのです。
「救われる為の゙言葉゛」
それに気づく為の遣り取りをする手段が、どうしたっで言葉゙なんです。どうしたって。ここさけはこの言葉にも勿論焦点を当てています。
゙世界が広がる゙時、場合によっては、自分も他人も知らない自分が言葉になって表れるかもしれません
(そういうのが悪意や狂言と呼ばれるものでしょう)
大抵の場合は、自分と他人の知ってる自分や、自分だけが知ってる自分、他人だけが知ってる自分が、誰かとの言葉の遣り取りの中で生まれます。
それはフィーリングとかだけではどうしたって伝わらないんですよ。
言葉というのは、意思伝達の為の共通記号なはずです。梨の音を奏でても全員が梨とは判断できませんし、梨の匂いを嗅いでも全員が梨とは判断できません。梨の味がしても全員が梨とは判断できませんし、梨を描いても全員が梨とは判断できないかもしれません。
でも、「梨」の字一つで、全員がそれぞれに思う梨を想像できます。言葉とはそれだけの一般性を含んだものなのです。
ですから、言葉で遣り取りするということは非常に具体的で客観的、反芻可能で再現可能な、僕ら人間のみに許された非常に便利な意思伝達手段だと思います。
だから、誰かに何かを伝えるにはやはり「言葉」で在る必要があるのです。分かりやすく、主観の混じらない言葉を伝えなくてはならないのです。
「言葉にしなきゃ伝わらない」ってやつです。
「音楽の力」
だのに、世界は言葉にするのを躊躇ったり、煩わしく思ったり、恥ずかしかったりする人が多くいます。それは「不器用」なだけで、一種の個性であり、決して糾弾されるべきものではありません。
そんな不器用な成瀬順が「音楽の力」を借りて人に何かを伝え続けようとする姿が描かれます。
そう、「音楽の力」もまたこのアニメのテーマだと思います。
不器用な人間が、言葉以外で伝える為に努力し続ける。その手段の一つが、音楽として今回は描かれました。
何故音楽が、言葉以上の価値を持つのかは語りきれるものではありませんが、それで伝わる事があるのは言うまでもないでしょう。割愛。
しかし、不器用な成瀬順にとってのコミュニケーションの手段が音楽であり、音楽にはそれだけの力があるということを、不器用かもしれない監督長井龍雪にとってのコミュニケーション手段であるアニメで僕に伝わりました。芸術とはそういうものだと思います。
言葉にできないものを試行錯誤して、丹誠込めて作り、言葉以上を伝える。アニメの力をも感じられる作品です。
「コミュニケーションとは傷つけることが目的ではない」
ただし、言葉にすること、伝えることで人を傷つけることも多くあります。
言葉は誰かを傷つけるのです。
どんなに゙心が叫びたがっていても゙、人を傷つけて良い理由にはなりません。
「消えろとか簡単に言うなよ」、って成瀬順が激昂するシーンがあります。
あれは「心が叫びたがっている」シーンなのに、何故誰も幸せそうに描かないのだろうと、ふと思ったのです。
田崎君が陰口を言われるシーンや、通りすがりの女性に「無理」と言われているシーンもそう描いてました。
あぁそうか、「言いたいことを言う」は、誰かを傷つける為に使ってはいけないんだという戒めなんだ、と思いました。
「言いたいことを言う」がまかり通って「キモイ」だの「うざい」だのなんだのが流行り、多くの人が死地や絶望に追いやられました。これは「言いたいことを言った」結果なのでしょう。でも、誰も幸せになってないんですよ、これ。言われた方も言わずもがな、言った方も「言う必要のないこと」を言っただけであって、誰も幸せになってないんです。
「言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃない」と以前、うちの子に言われましたが、多分それは「傷つけるための言葉」だったから言うべきじゃないと思ったのでしょう。
友人の言葉が思い出されます。「批判と非難は違う」と。
人を傷つける為に、人に何かを伝えて良いわけがないのです。安部死ね(敢えての誤字)と言っている人たちに幻滅するのはこの部分なのかもしれません。
巷によくいる「一回殴って良い?」だのと軽々しく口にする人たちも同じです。人を傷つける為に人にものを伝える人たちです。(俺の人生はこういう奴らにぶち壊されたとも言えます、吐き気がします)
僕らは誰かを傷つけるためにコミュニケーションをするのではない。僕らは誰かを傷つけるために表現をするのではない。僕らは誰かを傷つけるために言葉を持ったのではない。
分かり合うために言葉を持ち、表現をして、コミュニケーションを図るのだ。そう、僕には思えます。
「分かり合うこと」
しかし、劇中、成瀬順は坂上君を傷つけます。散々罵ります。でも、それを聞いて坂上君は涙するのです。その涙の意味だけはイマイチ飲み込めないのですが、しかしながら、傷ついた様子はあまり見えません。
おそらくそれは、傷つけられる側(坂上君)に覚悟があったからなのでしょう、分かり合うための覚悟が。坂上君は、成瀬順を分かる為に、傷つくのを覚悟で叫びたいことを叫ばせたのだと思います。だからその後、成瀬順も坂上君に傷つけられるのを覚悟しながら、聞いたのでしょう。本当に分かり合うために。
このシーンでの、二人の会話は相手を傷つけるための会話だったでしょうか。多分違います。
言葉にしないことで起きるすれ違いを、衝突させて消したのでしょう。互いに一歩を踏み出すために。互いを思いながら。
この日本じゃ波風を立てないというニュアンスで、衝突することが悪いみたいな風潮がややあります。しかしながら、互いの進歩の為の衝突はあるべきだと思います。(語気が荒くなったりするとそれはともすると喧嘩になりかねませんがね)。互いのために、進むために衝突はしてもいいのだと思います。
相手を思いやることが根本にある衝突はあって然るべきだと思います。
「誰かが100%悪い訳じゃない」
世の中全部、そうだと思います。100%の悪意で誰かがアクションを起こしてるのではないのです。
成瀬順は、仁籐菜月は、坂上君や田崎君は自身の不甲斐なさに涙します。誰かが100%悪いのではないことを知っているからです。
そのことを知る寛容さと、精神的に進む向上心、心が叫びたがることを伝え、ジョハリの窓を全て見て、他者と分かり合う。そして、ともに進む。
その先に何が見えるのでしょうか。
多分、世界が美しく見えるのだと思います。
この世界を抱きしめたくなるのだと思います。
愛してると、誰かに伝えたくなるのかもしれません。
僕が今伝えたいことは、とりあえずこんなもんでしょうか。