2016年1月17日日曜日

最近のモヤモヤ

 僕が大小関わらず暴力を行使しようとする者に怯えている理由は何だろうと、この数週間、ずっと考えていた。
やはり、その思想や思考そのものが、テロリストと何ら変わりないからである、と思った。貿易センタービルを破壊しないだけで、銃を乱射しないだけで、あれらテロリストと同じ種族の人間であるからだ。

 ISISや難民達、その他諸々によるテロにも似た行為が日々起きていく中で、その不条理に曝され痛みを受ける人々がいることを思うとやるせなくなる。
それらテロ行為が恐ろしいと感じるのは、その国の法律という、ごく一般的なルールを守れない人が自分の近くに存在するという恐怖感があるからだ。人を殴ってはいけない、殺してはいけないという、単純なルールさえも。
 そもそも、人を殴ってはいけない、殺してはいけないは、他人の権利を守る為にあると思う。他人の自由を保証するためにあると思うのだ。損害により生じる代償や、精神的な痛みを「自ら」償う「不必要なことをしない」権利を守る為だ。自分の、加害者の心の自由を保証するために暴力が存在するのではない。
 それを分からないらしい、すぐ隣にいる人が爆弾(暴力)を抱えてるかもしれない。その可能性に、日常が脅かされる。その可能性が、人を抑圧する。外に出るのが怖くなり、意見を表明することが怖くなる。テロとはそういうものだと思います。
 それら暴力を有している(そういう思想を持っている)、というだけで、その人への信用を各段に下げざるをえない、と思う。
 暴力を行使すると表明する人間になるとはそういうことだと思う。「冗談」だとしても、いざとなればルール(法)を無視する人(他人に痛みを伴わせようとする人=他人の権利を守ろうとしない人)、そういう前歴を持った人が約束を守るとは思えないのだ。
 だからこそ、テロリストの要求は飲めないし、テロリストの口上は聞き流されるのだと思う。信用のならない言葉達だからだ。いざとなればルールを暴力でねじ曲げる、その可能性がある人達を信用できるだろうか。
 彼らは彼らなりのルール(法)を持ち出し、その法で人を裁く。勝手に自分の城を築き上げて、その君主になったつもりで他国に攻め入る。異端者は粛正し、自分の信用できる人間に自分の正しさを確認しながら、自分の正しさだけを是として進む。他に、例えば日本国憲法という法があるにも関わらず。
 私法が、私刑がいけないのは、法律というルール外で処罰される者の冤罪の可能性があり、そのせいで再起不能になるかもしれないからだ。正しさなんてのは万人にあり、その万人の正しさをすり合わせる為、落としどころを探すために僕らは言葉という道具を使い、対話するのではなかっただろうか。

 些細だろうが痛みは痛みだ。じゃれあいのつもりでも、痛みは痛みだ。器物の破壊も同じだ。「遊んでいたつもりだった」という、いじめと同じ。
被害者には損失がそこに生じる。自制していれば、起こるはずのなかった損失が生まれる。そうした暴力を行使してくる可能性があるだけで、そういう思想を持つというだけで、暴力と暴力を行使する可能性のある者を不信し、僕は自分の身の為に、暴力に怯えるのだ。
テロリストに怯えるように。
僕のその怯懦を保身というのなら、他人を屈服させるために、自身のフラストレーション解消のために、自身の正しさを証明する為に行う暴力も保身なのではなかろうか。

世界は臆病者でできている。
プライドが人を殺す。
保身が他人を脅かす。
トラウマが今を作り出す。
めんどくさい生き物だなぁ、人間。