2014年2月23日日曜日

終物語(上)

 絶望の作り方。 
推理して暴かれるのは個人という存在ではなく、絶望の根源だ。
 推理小説の体を取りながら、シリーズの話を進めていく、花物語以上にシリーズの中では特徴的な巻になったのではないかと思う。推理小説というには少し妙ではあるけれど、各所のテンポの良さは間違いなく推理小説のそれだ。人がどのように絶望にいたるかを、あたかも謎を解くように削られ露わにされていく。

 先に言っておくけれど、僕の文章はクソだ。だけれど、僕の本音が詰まっているということだけは知って、スクロールだけしてほしい。それだけで、ある種満足だ。ただ全然足りない。

 さて、多分、多くの人にとって絶望なんて経験は無いでしょう。そんな目に遭いたくもないし、目を瞑りたいし、もしあっても忘れたい。それでも、不確かな未来が現在の延長線上に存在しているということを実感するのは、やはり絶望した時だと思う。ガラガラとと音を立てて目の前の未来が崩壊していき、確かにそこにあったと初めて知る。そして、社会や「普通」が語る言葉で呪いをかけて、未来に盲目にさせる。それが絶望だ。
 そして、絶望をするときというのは失敗した時ではない。正しいと思っていたことが間違いになった時に絶望する。神の消失、日常の誤読、道徳の不履行。多くの場合、そういったことが絶望を産む。
 アララギ君もやはり、大きな正しさの裏切りを知って絶望した。そだちも、自分の環境を知り絶望した。正しさという語の多様性を、正しさの集積をできていない少年期においては酷な現実だ。並み居る人間なら、絶えられない。その人が真面目で純真であるだけ、正しさの数は少なくて、その正しさが崩れた時に絶望しやすくなってしまうのだろう。鋼線一本じゃワイヤーは成立しないように、何本もの正しさがあって初めて絶望から落ちないでいられるのだ。それを培うのはやはり本であり、物語であって他人の人生の疑似体験をすることで、学べるはず。昔の僕にもっと本を読めばと言ってやりたくなります。

 まぁ、この本はアララギ君の始点と絶望の物語だと言っていいでしょう。そして、シリーズ通して語られる正しさの追求と、それを青春と名付けることの許される若者たちの日々も描かれます。
 僕がこのシリーズに感じる魅力はやはり、この正しさの模索なんだと思います。マジョリティーに属している人は、おそらく自分がやってることが否定されることはないでしょう。それこそ、多数決で正しさに変えてしまいます。「赤信号、皆で渡れば怖くない」です。 しかし、マイノリティは一貫してサポートしてくれる常識も理論もありません。(まぁ、稀にあるのですが。)マジョリティの中にいると必然的に疎外感を味わうわけです。
 それ故に、この疎外感と自分が肯定されない感じは多くのマジョリティーには理解できないものだと思います。ぼっちのためのぼっちによる自慰的な話と言われてしまえば返す言葉が無いのは事実です。「やはり、俺の青春ラブコメは間違っている」も真っ青なぼっち小説です。しかし、単純な推理物という要素を加えることで幾分か見やすくもなっています。人の死なない推理小説、絶望の根源を探る推理小説。前半の「おうぎフォーミュラ」はそんなお話です。

おうぎフォーミュラから一節、
 「誰も本音を言わないくせに傷つけあっている。」
 この言葉の含蓄の深さは素晴らしいと思う。多分、本音を言って傷つけあう人間なんてこの世にそういないのではないか。本音というよりも本質ですが。政治家は本音を言いすぎて墓穴を掘るのだとしても、一般市民は本音で人を傷つける事なんてあまりないでしょう。少なくとも、僕が傷ついたと思ってきたことは、本音によるものでもなく真実によるものでもない。多分、大多数の人間は僕の本音など聞いたこともないでしょう。僕が中学の時に見たあの人や、高校の時見たあの人はおそらく真実なんて一言も話していない。外見という表面的な理由で人格が否定されて、「普通」という公式の不純物として処理されているだけに過ぎなかったと思います。本質を見落とした、というより見ようとしない不毛な争いなのでした。これには本当に辟易するし、「幼稚さ」の本質の一部がコレなのだろう。この言葉は感銘しなければ、と思う。

  さて、白眉はソダチちゃんの矮小化のシーンです。アララギ君に自分の不幸を吐いて、どんどん小さくするシーン。その描写は本当にすごいとしか言えなかった。ガス抜きというより、言葉の魔力により自分の言葉が全てブーメランとして帰ってきて、自傷する。恨みだと思ってたものが、言葉にして初めて力を失っていく。何でこんなくだらないことに悩んでたんだ…、とかじゃなくて、言葉にすることで自省が繰り返されていく感じが素晴らしい。大好きって何回も言ってると、その意味に惑うように、大嫌いも何回か言っていて空虚になっていく。頑張ろうもその典型でしょう。言葉は呪いだ、本当にこれに尽きるんだ。加えて、ソダチの場合は2年間の引きこもりのなかで、延々とその自問自答を繰り返してきたんでしょう。で、答えは分かっている。相手にぶつけて、何の意味もないことを分かっている。ていうか、言ったって意味がないことだと。過去の恨みって言っても本当にすっきりしないし、このためだけにアホみたいにくらい時間を過ごしてきたのかと思うと心底悲しくなる。恨みの無益さを本当によく表していた。

 そして僕はこのソダチちゃんが好きになった。あんだけ媚を売っただけと言っても、彼女とアララギ君が共に過ごした時間は楽しかったはずだ。それが何故だかすごく伝わってくる。何でかわからないけど、あの時間は嘘じゃなかったはずだという気持ちが拭えない。最悪の状況でも、それでもやっぱり楽しかったんだろうな、と思ってしまう。

 ここまで書いてアレなんだけど、
ダメだ、感動を手放してしまった。ご飯作ったりしてて、どこか行ってしまった。悔しいいいいい
とりあえず、化、偽、傾、囮、恋、猫黒を見て、鬼、傷、花、猫白を読んだ身として、猫二作に通じる良い作品だと思う。エンターテイメント性に関しては高い。知らない人が読んでも、まぁ行けるんじゃなろうか。読み返したとき、また感動と出会えることを祈ります。
 



2014年2月16日日曜日

雪に埋もれて三千歩

 そろそろ、雪だ!嬉しい!なんて言っている場合じゃないですね。昨日今日と心労著しいので、少しストレス発散しなくては。

 




 最早、災害と言っても過言ではないでしょう。昨夜も、夜中二時ごろ、吹雪の中で立ち往生する車が家の窓から見えたので、声を駆けに行こうと思ったら、長靴が埋まるほどの雪があり、そこへ行くまでも大変でした。普段1分もかからない近さなのに、10分近くかけて行ったと思います。
 その車の下へ行って声をかけてみましたが、大丈夫、とのことで引き下がりましたが、色色心配です。深夜のバイトからの帰りに、姉も足を挫いたそうです。火花を散らして進もうとする中トラックを押したり、動けなくなりそうな乗用車の足元の雪をかいたり、キャリーで買い物に出かけるそこら辺のおばあちゃんの荷物を持ってあげたり…。生きてる心地はしますが、心も痛みます。

 さて、こんなことを書くと就活中の身として、人事部に目でもつけられかねないのですが、僕は日本の会社、むしろ社会全体の危機管理能力の無さに疑問を持たざるを得ません。
 
 震災の時にせよ今回にせよ、明らかに天災と言えるにも関わらず、多くの企業が出勤を促すのは何故なのでしょうか?おそらく、天災の時と今じゃ、都民にとっての状況は大して変わらないと思います。帰れないという問題で同じなのです。むしろ、交通網に至っては更に重傷なのじゃないでしょうか?東京都知事選ですら防災が公約になっていたはずなのに、今回の大雪で企業や「社会」の防災に対する意識の低さが露呈したとしか思えません。従業員の安全を優先するならば、早期帰宅や自宅待機命令など出せたと思います。
 電車の停止で帰宅困難者が発生したり、深夜3時過ぎの帰りになるなど、そこまでして出勤する必要はあるのでしょうか?無いとはいいませんし、一部を除きそれでは不都合が発生するのですが、明らかに社員のモチベーションを低下させ、ストレスを増やすだけだと思います。特に、飲食店のような立ち仕事の場合は、雪での転倒によるケガなどで人員を失ったり、効率を低下させたりするのはより大きな損失になるはずです。表面的にならずとも、代理を務める従業員は間違いなくモチベーションが下がるでしょう。短期的、マニュアル的な経営方針に捕らわれて、長期的で重大なリスクを回避を怠った結果としか思えません。残念ながら、管理者の自業自得であり、企業努力不足と思われても仕方ないでしょう。
 それに対して、消費者も大きな覚悟を迫られます。台風の日にピザの配達を頼んだ人がいたりするのが現状です。SNSでは、今日引っ越し作業があった旨も報告されています。人員が足らず、不動産建設などで今回の事で工期の延長などが起こったでしょう。それらに対して寛容であることを消費者側が意思表示する必要もあると思うのです。宅配ピザはやめておこうとか、大雪があったんだから仕方ないよねくらい思うべきだと感じます。需要が無ければ供給は発生しないのですから。
 そういう意味では、ニーズを探るビジネスにおいてそれこそ商機です。今頑張れば、と思うかもしれません。そうさせないために、今回、政府が動く必要があったのではないかと強く思います。首相は金メダルを取った羽生選手と電話会談などしております。さすがに、失望しました。自然災害が発生しているという意識のあまりに低さに、驚きを隠せません。もっと死人が出たりしなきゃ政府は動かないのでしょうか?
 アメリカにも寒波が襲い、首都機能がマヒして非常事態宣言が早々に出されました。しかし、今、首都圏にいてその対応が過剰でないことを痛感しています。車は立ち往生し、車中泊を強いられている人。電車の中で一晩過ごした人。体育館の屋根は崩落し、物理的な理由で機能不全となったと思われるブレーキによる列車衝突事故。家屋や設備の倒壊で亡くなる人。路上に放置されている車が救急車の道を塞いだり、雪で進まなくなったり。電力需要は逼迫し、この寒い中で停電の発生。もうほとんど、震災の時の気持ちそのものです。こんな風に思ってるのは私だけでしょうか?
 なのに、ビジネス絡みは動き続けています。ここで、アメリカのように非常事態宣言のようなものでも出せば、少しでも社会的な風潮は変わったのではないでしょうか。少なくとも日本社会と世界がその言い分を是とします。アメリカにできて日本にできないというのもおかしな話だと思います。

 こういう言説が実しやかに呟かれる現状が日本の異常性を顕しているでしょう。どこかの大学教授らしく、コメントでは叩かれていますが、多くの企業の代弁をしたに過ぎないと思います。少なくとも、出勤状況などを見るとそういうことだと思います。

 こうやって、Twitterからの引用をしていますが、かなり便利な物です。ネットが使えるだけで、エアコンの室外機の対策も知れます。交通機関の影響や、最大何分の遅れが出ているなどもわかります。東急の衝突事故の一方もどの報道機関よりも早く教えてくれます。過信は禁物ですが、やはりその有用性は侮れないと思います。ネットを使わない人、例えばうちの父などはそういった状況を把握できておらず、早朝の吹雪の中、駅に向かったそうです。
 一方で、マスコミの報道もタチが悪く、大幅な乱れと言及するにとどめています。三鷹から武蔵境まで1時間などありえません。ちゃんと詳しい状況教えてあげようよ、本当に。ネット使わない人は痛い目にあいましたよ。
電車の遅延や運休でやることもなく缶詰にされている人たちを、時給換算でどれだけの機会損失になるのかを考えたらかなり、大きな額になると思います。それでも億とかの取引単位には及ばないとか言われたら失笑するしかないんですが。まぁでもそういうのにツケを払わせられる人間が確かにいるので、脱成長とか明後日な方向を主張する人が出てくるのでしょうけれど・・・。
 
 あ、個人的にこういう事態は来年以降もありそうです。毎年こう雪が降ったらさすがに対策されてくるんだろうな……。
 とりあえず、ちょっと気が滅入っているので思うところ書いてすっきり。まぁもっと色々あるんですが。底辺は底辺なりに悩むんですよ。

2014年2月1日土曜日

皮一枚を繋ぐもの

 比較的大けがをしまして。まな板使わずにジャガイモ切ろうとしたら、ずるうっと包丁が進んで、左手人差し指と中指の間の水かきのような部分をザックリと切ってしまいました。不注意と言えば不注意なのですが、やりたくてやってるわけでも無し、不運というか呆けてるというか…。ちょっと人としてどうなの、って思うレベルです。思ったよりも深いらしく、もう一度手術しなければ…とも言われましたが、それはなんとか避けられそうでホッとしています。
 今年になってから、どうもろくなことがないのです。自転車のヘルメットは盗難にあうわ、今日のけがやら。そして、その嫌な事に妙な前触れみたいなものを感じるのです。なんかいつもと違う…っていう心持があるのです。最近どうも、未来予知的でデジャヴのような予兆と関連が多くて何か気持ち悪いんですよ…。例えば、ですけど不意になんとなくカマボコの話をしていたら、テレビでカマボコについてやってたり…。長野上田の話をしてたら旅番組が上田を取り上げてたり…。あくまでたとえ話ですが、最近そんなことが多くて不気味です。ちなみに、今日は今にして思えばなんとなく、怪我することは必然だったようにさえ感じています。何かあった気がするのですが…なんだったでしょうか定かではありません。
 
 さて、救急搬送されて、処置台に寝転がり、病院の蛍光灯を眺めながら色々思うわけです。
 僕はまぁなんと無力な事か、と。指の間(深いとはいえ)切ったぐらいで、何もすることができず、ただ浅知恵を働かすことしかできないわけです。勿論、救急処置は人体にかかわることですからそれなりにデリケートであり、故に高度な知識が要求されるわけですが、自分の身体ひとつメンテできないなんてと感じる訳です。もっと重症だったら、出血多量で死んでいたのかな、と思うと生きることの危うさと浅学を恥じてしまうのです。結局、救急車を呼んだわけですが、たった一つの、しかも自傷行為に近いような怪我で、僕自身の生活機能がマヒして、酷く情けないと感じましたよ。結局、誰かいないと僕はダメなんだという無力感と、必要悪でもない単なる過失で迷惑をかける罪悪感に苛まれるのでした。そして自己管理能力の低さを痛感するです。
 もうひとつは、将来像と時間の揺らぎです。処置をしてくれた先生がとても若かったのです。そんな彼が、麻酔の量と道具を的確に見極め、縫合している様を見て、酷くショックを受けました。こんな時間にくっだらないケガで手間かけさせんなよガキが、っていう過剰自意識のセリフが頭の中で流れていきました。自分の身体は歳をとっているのに、行為と知識は子供のままで大した知識も身に着けずにのうのうと生きていることに酷く腹が立ったと同時に空しくなるのです。ビジネスマナーとかそういったものは一人の人間の命の前では役にも立たないのに、そんなことや筆記の為に参考書を読んでいて、なおかつそういう空しいものを身に着けようとしている自分がバカバカしく思えました。これは、単なる悲観などではなく、むしろ彼らのようなプロフェッショナルと同等かそれに近い金額を、働いてもらう価値がある仕事なんてあるのだろうかという社会構造の空しさへの疑問といっても良いでしょう。僕たちがいかに学習したとしても、もはや違うステージに立っており、人の命を救っている。この事実は、就活なるものがいかに大義の無いものか突きつけられているようでした。仕事があるかないかとかそういう問題ではなく、本当に初任給にさえ見合う人間であるのか。快楽主義的な自己満足の為に平和ボケ的に生きていていいのか。社会に出て、給料として数値化される人の価値は、多分に精神的要素によりその評価は左右されるものですが、それでも事実として個人が作り上げる価値としては、医者のそれには到底及ばないわけです。
 社会を支える人の努力に胡坐をかいて、将来の安定とか勝ち組負け組だのに執心する俗世がバカらしく思えます。そういうい道が悪いとは言いませんが、それであなたが偉いとか言うわけでもないということを思いだして欲しいのです。どんなにスティーブ・ジョブズが讃え憧れられても、僕にとっては今日の僕を治療してくれた皆様の方が偉大なのです。どんなにジョージ・ソロスが財を持てど、僕にとっては衣食住を負担してくれている親父の方が偉大なのです。お金がいくらあったって、ブラックジャックには治せない病気があるように、資本主義というシステムによりかかって生活しすぎると、何か良くないような思いのする、不安と冷めたような感情が渦巻きます。

 でも、やっぱ誰かと家族になりたいなぁ。恋人にならなくていいから、家族になってくれる人。そういう感じの考え方は少ないと思う。でも、うさぎドロップ愛読者として、その気持ちら簡単に片づけられないだろうと思うんだ。それで、苦しいときは助けあって、っていうのはやっぱ好きだ。何より安心する。そういう自然とうちに帰って、スポッと自分が当てはまる場所。それが自然なんだろうなぁ。そうしたら、そこに恋という感情はそんなにいらないよ。