2014年6月8日日曜日

彼女の備忘録



 
 汚い。私は汚い。
何と言えばよいか、私はとにかく汚い。綺麗とは真逆にいて、美しさの欠片もない。
三人の魔女が言うように、「綺麗は汚い、汚いは綺麗」だとは思えない。

正直でもなく、何より、ふしだらとと表現しても良い欲求がある。
肉欲がある。
寂しさを 振りまいて、女を武器にして。
男という海に溺れ、その水さえも美酒のように飲み干してきた。
奥ゆかしさ、という概念からは程遠いところに私はいて、花を摘み、蜜を吸う。




         鏡を見る度に、私は自身の中庸さに胸をなでおろす。
いや、正直に言おう。私は自分がブスでないことに安心する。
決して、万人がきれいだの可愛いだのと言うほど、容姿に優れてはいない。
けれど、やや丸みを帯びた輪郭、ツンとした鼻、見開ける瞳。
胸も並み以上にあるし、贅肉は一部にしかのっていない。気にはなるけど、目につかない。
ちんちくりんでもない背丈で、声も姿勢も整っている。
女らしさという部分には隙が見えない。
 それ故に、私は可愛い。
可愛い可能性のある人間に生まれて良かったと心から思える。
それは何より、私の付き合ってきた男の数が証明している。
初めての彼氏ができて以降、1年と私の横が空白になったことはない。
往々にして、好奇心と進取性に富んだ私は明るく、可愛らしくなれて、それで男はイチコロだった。
正直に言えば、イチではなくニコロぐらいな場合が大半であるけれど。
それでも、初心そうな、というより女を知らなそうな男は、勘違いする。
勘違いして、私を好きになっていく様がありありと見える。
お生憎、そういうのはノーサンキューだ。
良い男、というよりも私に社会的にも個人的にステータスを与えられる男。
そういう男だけが、私の琴線に触れ、肌に触れていった。
そのまま肌を重ね、溶けだして。
その浮遊感がもたらす快楽を全身で浴びた。
嬉々として、優越に口を緩ませて。

 そういった思考を、今までは普通だと思ってきた。
けれど、何故だか。何故かはわからないけれど、その思考が躊躇される。
そして、自分の汚さを思い知らされる。 
その汚らわしさは、抱かれている時に露わになる。
物足りなさ、とはまた違う。断じて違う。
 愛も変わらず、相も変わらず、私はあの人を愛している。
内蔵が浸食され、体温が内から拡がっていく喜びは褪せもしない。
彼のものがそのまま私を喉まで貫いて、体中があの人ではちきれてしまいたい。
身体中の体重を失って、あの人にすべてを支えられて、
手が、足が言うことを聞かなくなるまで、 浸していたい。
そんな感情が手足を動かし、私を裸にする。
 あの人の体温が濡れた綿のように、重く、肌に貼り付いて離れず、
ひたひたと肌に吸い付く。
その瑞々しさを纏い、私の肌が呼吸する。
恥ずかしさも何もなく、彼という大地を這いずりまわりながら、彼の太陽を握りしめる。
その熱さを、土から引きずり上げ、撫でながら、私の海に沈めるのだ。
熱さで骨が燃えが、肉が燻る心地がして、耳朶にかかる吐息で冷やされる。
悪寒にも似た続々とした身震いが、体中を震わせる。
 息をこらえて沈みゆく人の交わるこの世界で、息の出来る唯一の瞬間。
私にとってあの人との時間がそうであることに変わりはない。

 ただ、その熱さは全ての男が同様に持っていた。
大して好きでもない男も、心が崩れるくらいに依存した男も。
全てが往々にして、熱く、固かった。
骨も何もかもがあって、物質的で重力を伴っていて、熱さを帯びていた。
そして結局、いつもやっていることは同じだった。
世の人間、全てが同じように営みを行っていて、どの男も同じように私を抱いた。
半狂乱で私を蹂躙し、弾けて、果てて行った。
 無論、気持ち的には違うかもしれない。
良かった時と悪かったとき、其々は明らかにあった。
イマイチと感じれば、蕩け果てるときもあった。
けれど、動物という枠から逃れられない。
四肢と生殖器が絡み合い、快楽を無心する。
それ以上でも以下でもない。
酷く野生じみていて、非人間的。
過分に本能的なその行いは、記憶に留まることが無かった。

 記憶。 
 私には情事の記憶が存在しない。
何一つ残っていない。
それがとても、拙く、幼く、ドロドロと汚れて、穢い。
そう思えた。
もっとも愛し合っていたはずの時間を忘れてしまっていることが、薄情で、酷く不遜な気がしてならない。
私が本当に愛していると思った男と寝た時の一瞬一瞬の記憶はなく、
同様に気まぐれで当てつけのように抱かれた男ともその時々の記憶はない。
どちらも等しく、忘却の彼方へ消えている。
私は言われたとおりに体を動かし、貪り、投げ出してきた。
しかし、その都度、湧いてきた感情のどれ一つも今は手から零れ落ちている。
愛し合うために交わりを求めているのに、何も残らない。
愛しあっているはずなのに、思い出にならない。  
記憶からはその瞬間はなくなっている。
 良し悪ししか感じれず、区別できない彼との一瞬一瞬が、惜しく、儚い。
それに気づいて、自分が何をしていて、何を欲しているのかが分からなくなってきたのだ。

 おそらく、神様の前でも、砂漠のど真ん中でも、森の中で泥にまみれても、恐らく人は同じようにするのだろう。
同じように裸になって、一瞬の快楽に身を浸かり、委ねるのだろう。
それでもその場合、違うのは単純に場所であり、空間であるだけで、精神と肉体を含めた私自身は変わらない。
私じゃない私は存在しない。
空が動くだけであって、心は置き去りにされている。
もっといえば。
私とあの人でしか築けない瞬間じゃない。

 手探りで、不器用にももがきながら、愛を手繰り寄せる。
そういったプロセスは微塵もなく、私たちは猿まねのように、 嬲り、舐りあった。
そして、私たちを動かすのは愛であったはずなのに、いつの間にか性欲にとって代わられた。
そのことにも気づかずに、今まで為すがままにされ、してきたことがひどく滑稽に思えた。


 何のために私は彼を、彼らを求めてきたのだろう。
私の欲求を満たすためなのか。彼の欲求を満たすためなのか。
私のと彼のと、各々の欲求を満たすためなのか。
定かではない。
ただ、私と彼との共同で産もうとする欲求ががそこには存在しなかったことは、微かに思い出せる。
私は私の為に彼を欲して、彼は彼の為に私を欲した。
そのタイミングが一致した結果だけが私たちの愛し合い方だった。
 時折、小道具や演出を入れていつもと違う何かを演じては見たものの、
脚本は常に同じだった。
結末は変わらなかった。
内容が違うように思えても、起承転結は、順番は守る。
常に型通りだった。
順番を間違えた時はいつだって、
傷つけあうだけか、傷つけあった時だけで、
涙が出るほど心が痛いときだった。
その交わりは決して、ハッピーエンドではなかった。

         待ち合わせの時間まであと五分。
ホットコーヒーはすっかり冷めていた。
ディナー時の喫茶店には三、四人の客しか見当たらない。
若い女性、フレッシュさのある男性2人、気ままそうな年配。 
店に入った際は若干のざわめきを感じたが、今は店内のBGM以外はほぼ無音だった。

 彼が来て、次にすることは。
それを想像し、自分が汚れずにはいられないという、背徳的な渇望が胸を躍らせた。
  
 今こうして、私が思っていたことをあの人に話したら笑われるだろう。
あの人は私を知っている。
どんなふうにねだり、乱れるか。
そんな私が、少女漫画の主人公のような純粋さを秘めていた。
そして、私たちの今に亀裂を生じさせようとした。
暗にあの人を責めているようにもとられかねない。
だからもしかしたら、幻滅もするだろう。
愛しているに決まっているじゃないか、そう言ってくれるような気さえする。

 けれど、何度でも言うように、その瞬間は至極、そして疑問の余地なく幸せなのだ。
彼と私の今を否定する気はない。
何より、体が正直に熱を帯び始めている。
いたずら心のような好奇心が胸をくすぐる。
長い夜を想像させる。

 私は多分、あの人を求めることを辞めないし、
もし、あの人が去って相手がいなければ探すのだろう。
寂しさや、寒さを嫌って、求めるだろう。
虫が光を求めるように、ワシが肉に群がるように。
求めずにはいられない。
何度だって、骨を埋め、一つになろうとして、あたかも一つになって、一人じゃないと思いたくなるだろう。
私は一人で大洋を泳げるほど、勇気もなければ気概もないのだ。
何より、目的地を知らない。
1人で船をこぎ、泳ぎ、自らの航路を知らずにも進めるほど私は強くない。
 死ぬのは。
怖い。

 それでも、私は脱したい。逸したいのだ。
通り一遍の愛し方から、獣じみた愛し方から。
今はあの人と、特別な何かを見たい。
作りたい。
 勿論、夢の国にだって水族館にも行きたい。
海にだって、外国にだって行きたい。
けれど、私が欲しいのは、濃密で記憶に残るような二人きりの永遠なのだと思う。
忘れてはならない思い出で、時間なのだと思う。
例え無人島に漂着してそのまま死のうとも、死ぬまでの日々を強く記憶に刻み続けたい。
身体と精神とが乖離することもなく、ゆらりゆらりと、果てしない海を漂う。
それでも良いと言ってくれる貴方がいるのかもしれない。
    
 「お待たせ」
彼が定刻数分過ぎ、やってきた。
後ろからゆっくりと彼は現れ、耳元でそうささやいた。
ダメだ。
無理なような気がしてきた。
汚れ無きままで、愛を実践することが。
 
 濃く、生臭い快感がリフレインする。
鼻を劈く臭いと、不自由な肉体の形を、身体は覚えていた。
 
 私は彼の手を握って、席を立つ。
存外に初心な私の存在を見つけ出して、あざ笑い、私はそんな私を置き去りにした。
その私はきっと、白馬の王子様をシワシワになるまで待ち続るのだろう。
寂しく、悲しそうに、理想の相手を待ち続けるのだろう。
同情する。

さようなら、あなたは理想に生きてなさい。
そうして孤独で独り、死んでいくのよ。
 誰をも愛することなく、貴方の理想を強請るだけのあなた。
さようなら。

2014年6月7日土曜日

Angel



「考えさせて」
彼女にそう告げられて三日が経った。幾度となく、携帯の電源を入れる度に憂鬱になる。まだか、まだかと苛立ち焦り。三日間その調子だ。

2か月ほど前、僕は柄にもなく、人を好きになってしまった。このかた何年もない強い思いだった。
 以前からの社内の知り合いで、顔見知り程度ではあったのだが、ふとしたきっかけで僕は彼女を好きになってしまったらしい。
 なんてことはない、たまたま話す機会があって、彼女がたまたま「いい人だよね」と僕を評してくれたからに他ならない。それが契機だったのだろうと今は思う。
 それ以降は、会えば少し話しをして、稀に二人で食事をしたりもするような仲になった。すれ違えば笑顔で声をかけてくれる。そんな仲になった。僕は苗字でなく、名前で「ミワコさん」と呼ぶようになり、彼女も「ユウタさん」と僕を呼ぶようにさえなっていた。
彼女にしてみればその時、つまり僕らが初めて会話をした日、文字通りに「良い人だね」と僕の一部分を見て言ってくれたに過ぎない。自転車を倒してしまったのを直してくれたとか、傘を貸してくれたとかその程度のレベルの優しさだ。誰もがやりはしないが、だれにでもできること。誰かから伝え聞いたであろう、そういう類の僕が発した言動に対してそう思ったのだろう。それは分かっていた。十にも百にも承知だ。
 
けれど、僕は幾ばくかまいっていた。
今の会社には憧れに近い思いで入社したものの、うだつ上がらない給与所得者として働きづめ、増えない預金と忍び寄るしわの数が毎朝を暗いものにした。そして何より、ここのところの失敗続き。ろくに案件もとれず、上司からは何度も叱られて、同僚からもそれはちょっと、と諦め顔されるような失態続きだった。よくあることだよ、と言う者もいたけれど、確実に僕の居場所は無くなっていった。
 趣味が無いわけでもない。休みが取れないのでもない。それでも、月曜日には必ず会社と業務が待ち構えていて、現実を突き付けてくる。僕が大した奴でないということを、空気とタスクが丁寧に教えてくれる。
かといって、そんな月曜から逃げることは、やはり今の世界に生きるものとして死を意味するのだろう。少なくとも貧して、飢えて、苦しむのは目に見えている。そんな不安が僕を未だ会社にい続けさせた。勿論、過失の責任も果たさねばとも思っている。

 もし僕に足りないところがあったとするならば、そう、僕はあまりにも普通だった。自身に少しの才気を見出したとしても、それは金にならないもので、仕事の上では必要としてくれないものだった。
いうなれば、ファンは多いし素晴らしい人柄だけど大したプレーの出来ないスポーツ選手と言ったところか。勿論、僕にファンもいなければ人柄も決してよくは無い。単純なたとえ話だ。または良い奴なんだけど演奏が下手なバンドマンといったところか。非は無い。けど光るものも無い。そういう平々凡々の、詰まらない人間だったということを、仕事をしていくうえで知ったわけだ。
 エラーの数は増えていき、不協和音も鳴りだした。揺らいでいるポジションに目を光らせている後輩たち。廃棄の決定を捺そうと構える上司。僕に発破をかけるつもりで呼ぶ酒の席では、誰某は上手くやっているから見習えだのという話に始終するばかりだった。
要するに限界だと思わされた。余地があったのだとしても、少なくとも今の僕には見えなかった。
 居場所も危うくなり、将来も危うくなり、毎夜毎夜が苦しくなった。笑いかける先もなく、テレビにも心動かされることなく。
 誰かがサーモカメラで僕の部屋を覗けば、すぐに僕がどこにいるのか解ってしまうだろう。ベッドの上に赤い熱源。その他には何もなく、蛍光灯が僅かに暖かい色を出している以外は全て青。
 鈍く、何とか輪郭を留めようとするに過ぎない青。黒い背景に、機械の熱だけが僅かに鮮やかさを描くに過ぎない。くすんだ緑と四角い青さばかりが映えるこの部屋で、僕一人が熱源となって映るのだろう。
 そんなことばかり考えて、目を閉じる毎日が続いた。枕に押し付けられる自分の脳の血管が脈動する度に、まだ生きているのだなと思い出せる。寝不足で体がぎこちなくなるたびに、まだ動くのだと痛感できる。腹が減るたび、まだ何かを欲している自分がいることに気づく。
ここが限界なのだと今は思う。色々と、限界なのだと。黒い道だけが僕の前に広がり、ネガのように反転した太陽の存在だけがわかる未来を見てしまったような気分だった。暗く、白と黒でしか物事を見いだせない世界。

 大きく話が飛んでしまった。やや愚痴っぽくなってしまったから話を彼女の話に戻そうと思う。
 そんな折に、そんな状態だったからこそ、彼女への思いが募っていってしまった。藁にもすがる思い、とでも言うほどに僕は救いを求めていたのかもしれない。安らぎが欲しくて、生きていける材料が欲しくて。彼女を欲してしまったのかもしれない。
 そんな思いを堪えきれず、食事に誘い、僕は彼女に告白してしまった。というのが一昨日だった。
 彼女は否定の意図はないように微笑んだ。けれど、やや困った顔でこう約束した。
 「少し考えさせて。なるべく早く返事はするから。」

僕は信じてしまった。その日まで話してきた中で、僕を拒絶するような様子は見せなかったし、寧ろ好意的に僕の話を聞いてくれていた。今は思い出せないけれど、僕をそれ以上に評価しているかのように言ってくれさえした。何より、優しい人だと言ってくれたということが自信にさえなっていた。
だから待ち続けていた。急な事だったから、考える時間が欲しいのも無理はないだろう。そう思った。思うことにした。
1日目はまださすがに早いだろうと思った。
2日目、返事が来ても良いだろうと期待していた。一日中、どこか浮き足立っていた。しかし、返事はなかった。
その日、寝る支度をする頃には期待は悪い予感に変わりつつあった。
 そして、3日目。未だ返事届かず。仕事中もそのことが頭から離れなかった。
 単なる照れ隠しなのか、などと都合のいい解釈をしてみたりした。
 忙しいのかな、と常識的な解釈もしてみた。それでも、就業時間間際になっても返事は来ず、彼女の姿も見る機会もなかった。

 その日は仕事も多く、忙しい日だった。いつも以上に疲れていて、節約の為にと自炊する気力も起きず、近所のスーパーで値引きした弁当を買って家路についた。
 45度の角度で目線を下げながら、何も見ないように、見えないように歩いていると自身の住まいが目に入る。ありふれたアパートである。ボロくて、けれど汚いような印象ほどは受けない中庸の住まい。僕に相応し良い住まいだ。ここに「帰ってきてしまった」というような印象さえ受けた。いつもの場所。変わり映えのしない毎日の象徴なのだろう。特筆すべきこともない、ただの寝る場所でしかないのだ。
 階段を上がっていき、部屋のカギを開けようとしたとき、ポストを覗くのを忘れていたことに気が付いた。約一週間前にネットで買った物が着いているかもしれない。そろそろ届いても良い頃だ。中途半端な大きさだからポストに入っているかも。そう思って階段を快活に降りて行った。
 ポストを開けると、いつものようにチラシが数枚入っている。ややがっかりした。
 手に取ったチラシの金額部分だけ斜め読みする。
何枚目かのチラシの裏に封筒が入っている。茶封筒が一通入っていたのだ。時々来る自治会費みたいなものだろうか。表面に何も書かれていないことを確認して、裏面を眺めた。
そこには「安井みわ子」なる文字が。忘れもしない名前が書いてあった。彼女の名前だった。

一気に僕は現実に戻された。疲れは一瞬で吹っ飛んだ。彼女からの連絡があったことが嬉しくてしょうがなかった。
けれど、何故手紙なのか。考えてしまった。
そして僕は、喜ぶことを辞めた。
自信は砕け、血の気が引くような思いがした。あれだけ願い続けていた、思い続けていた希望がここで断たれることが分かってしまった。
前時代的な手紙を何故わざわざ寄越したのだろう。メールでもいいじゃないんだろうか。手紙は何のために使うのだろうか。
 「言えないことを伝える為に」
 最近、手紙が趣味になったと微笑みながら、そう語っていた彼女の顔を思い浮かべる。
 そして、僕は手紙がいつ書かれたのかに気づいてしまった。
 僕が彼女に愛を伝えた日から三日目。おそらく、最短時間だった。
 その日の翌日には心は決まっていたのだろう。だから、一筆書いて投かんした。
 
 封筒を開けると、やはり断りの旨が記されていた。友達でいましょう。いい人がもっと見つかりますよ。そんな文だった。
世の中思った通りにはならないなんて言うけど、それは十二分に味わってきたけど、それでも辛かった。どれだけ願っても、どれだけ愛していても、どれだけ一緒にいたいと思っても、届かない願いがあるのだ。あるというよりも、僕にはそういった闇が常に待ち構えているのかもしれない。思えば思った分だけ、期待し期待した分だけ、願いの遠さと儚さを思った。
 大学受験で、数値化可能な物ならその結果にも納得がいく。けれど、僕は全身全霊で過去も今も未来も語った。二人で楽しくしゃべり、彼女の求めるような人間であろうとした。会話を重ね、幾度も笑いあい、愚痴を言ったりと短いながらも楽しい時間を過ごした。
けれども、「ご期待には添えません」でした。そういうことだったのです。
 
 天から垂れている糸が、もしくは意図がプツリと切れる音がした。掴み損ねたその糸は細く、いとも簡単に手を滑っていった。暗に仄めかされたその意図ははっきりと、僕の耳に聞こえるようだった。何も残らず、何ものにもなれなかった。天の思惑は僕を見限り、運命は僕にあるがままにと今の辛い現実を与えたのだろう。天は笑顔で、さも仕方ないといった風に、僕にこの現状を与えた。
 笑っている。
 どうして、笑っているんだ。
 人の不幸を。
 絶望感から、今度は怒りさえこみ上げてくる。そして、それはすぐに沈下し、悲しみを呼んだ。
 僕は彼女を求めるばかりだった。与えることも考えず、藁だと思いしがみついたに過ぎなかったのだ。どこのだれが、しがみつくだけの人を選ぶのだろうか。僕は彼女を不安のはけ口にしていた。この文を読み返して、僕は「生きている材料が欲しくて」などと書いている自分が恥ずかしくなった。結局、僕は自分の為に利用しようとしただけなのだと。
一方的な勘違いと過信が生んだ、悲しい希望だったのだと思い、そして、自らを責めた。
僕自身の願いを叶えることばかりに腐心して、彼女が何を欲しているのか考えていなかった。何をしてあげられるのか、そういった想像力が働かなかった。
 おそらく、僕自身であればいいと思ったのだろう。どんな僕でも愛してくれるという、根拠も証拠もない理想にすがった。そして、勝手に期待して、勝手に絶望した。そうして、僕の恋は終わった。
けれど、僕は少しでも君を愛せて良かった。それだけは思う。明日も良いことがあるかもしれない、という気がしてきた。

こうした自問自答を果てしなく続けた。結果、僕はすがってしまった。とりあえずで良い。楽になりたい。家に酒もない。タバコも吸わない。1人で自慰にふけっても、何の慰めにもならない。それでもヤケ酒でもしたいような気分だ。だから浴びるように飲もう。明日は休みだから、今からコンビニに酒を買いに行こうと思う。
 とりあえず、僕はひと眠りしようと思う。仮眠してから、酒を買いに行って。それで、全てを忘れよう。自身の醜さに潰されないように、またの月曜から振り出しに戻れるように。

 「辛くなったら呑んでください」
そう医者から渡されたらしい薬が視界に入ってきた。俺は無心でそのビンを取った。少し前、たまにはと俺が誘った飲み会の時、自虐なのか自慢なのか分からない曖昧な口調で見せびらかされたそのビンだった。 
 斜線で締めくくられた手紙を、というよりレポートパッドを読み終えて、元から置かれていたちゃぶ台の上に戻す。そして、俺は改めてあたりを見渡した。
半開きのフタ、散らばる錠剤。向こうのデスクに伏せるユウタ。
彼の手の下には封筒があり、「安井みわ子」の名と住所が書かれていた。
ちゃぶ台には他に、食べかけのコンビニ弁当があり、やや異臭を放っている。
くしゃくしゃに丸まった便箋がいくつもゴミ箱の中に。

俺は生死を確かめることぐらいすればよかったのかもしれない。
だができなかった。正確に言えばしなかった。
恐れだろうか。いや、諦め故なのだと思う。
揺れ動かしちゃいけないような気がした。
例えるなら、それは蝉の死体ではなく、抜け殻を見るような気持ちになったからなのだと思う。
蝉の抜け殻を見て、どこか安心するだろう。無事に、成虫になれたのだと思えるだろう。次があるのだと思いはせるだろう。湧き出てきた感情はそんなものだった。
ごくありふれた風景のようにユウタは座っている。
あるべき姿のままで。そうしておくのが一番良い気がした。
警察の事情だとかもあるが、なにより、邪魔しちゃいけないような気がしたのだった。

部屋は必要以上に冷たく、暗かった。凄惨さなど微塵も感じられない、静かな部屋だ。
 酷い話だけれど、ユウタの魂の抜け殻は、とてもその場の空気に馴染んでいた。熱も、概念も何もかもが部屋に溶けだして、不思議な一体感が漂う。
 すべてが力なく存在して、肩ひじ張らずにいた。  
 もう一度ユウタの顔を覗くと、その寝顔はあまりにいつも通りだった。幼い頃、何度も見てきた、寝顔そのものだった。
小さい頃は小説家になりたいと言っていたユウタ。自分の事をさも他人のように書いて、踏ん切りをつけるつもりだったのだろうか。そして、みわ子さんには一筆認めようとでも思ったのだろうか。封筒はその準備だったのかもしれない。

 回りくどくて、不器用で。我儘で。それでも、俺にとってかけがえない友達だった。いつも色々なことに悩み、常に人の幸せを願っていたようなお人好しだった。
馬鹿な俺だから本はからっきしでも、ユウタの書く話は面白かった。毎回読ませてもらった。尊敬すらしていたくらいだ。あいつがいなかったら、もっと浅はかな人生を送っていただろう。本を好きになることができたのもあいつのおかげだった。
 だから、他の誰もが言わなくても、俺はあいつの幸福を願わずにはいられない。「天使の腕の中で飛び去っていった」あいつの大好きな歌を思い出すことくらいしかできず、安らかたらんことを願うほかない。

 通いなれたこの部屋のCDラジカセの電源を入れる。CDラックを勝手に漁り、葬式ではこの曲をかけてくれといつも言っていてたあいつの大好きな曲をかけてやる。一曲リピートにして永遠に聞いていられるように。

俺はちゃぶ台の上のユウタの文が書かれた便箋を拾い、折りたたんでポケットにしまい込んだ。音を立てないよう玄関のドアを閉めて出ていくと、部屋はまた空っぽになった。 
そして、110をコールする。