2014年6月7日土曜日

Angel



「考えさせて」
彼女にそう告げられて三日が経った。幾度となく、携帯の電源を入れる度に憂鬱になる。まだか、まだかと苛立ち焦り。三日間その調子だ。

2か月ほど前、僕は柄にもなく、人を好きになってしまった。このかた何年もない強い思いだった。
 以前からの社内の知り合いで、顔見知り程度ではあったのだが、ふとしたきっかけで僕は彼女を好きになってしまったらしい。
 なんてことはない、たまたま話す機会があって、彼女がたまたま「いい人だよね」と僕を評してくれたからに他ならない。それが契機だったのだろうと今は思う。
 それ以降は、会えば少し話しをして、稀に二人で食事をしたりもするような仲になった。すれ違えば笑顔で声をかけてくれる。そんな仲になった。僕は苗字でなく、名前で「ミワコさん」と呼ぶようになり、彼女も「ユウタさん」と僕を呼ぶようにさえなっていた。
彼女にしてみればその時、つまり僕らが初めて会話をした日、文字通りに「良い人だね」と僕の一部分を見て言ってくれたに過ぎない。自転車を倒してしまったのを直してくれたとか、傘を貸してくれたとかその程度のレベルの優しさだ。誰もがやりはしないが、だれにでもできること。誰かから伝え聞いたであろう、そういう類の僕が発した言動に対してそう思ったのだろう。それは分かっていた。十にも百にも承知だ。
 
けれど、僕は幾ばくかまいっていた。
今の会社には憧れに近い思いで入社したものの、うだつ上がらない給与所得者として働きづめ、増えない預金と忍び寄るしわの数が毎朝を暗いものにした。そして何より、ここのところの失敗続き。ろくに案件もとれず、上司からは何度も叱られて、同僚からもそれはちょっと、と諦め顔されるような失態続きだった。よくあることだよ、と言う者もいたけれど、確実に僕の居場所は無くなっていった。
 趣味が無いわけでもない。休みが取れないのでもない。それでも、月曜日には必ず会社と業務が待ち構えていて、現実を突き付けてくる。僕が大した奴でないということを、空気とタスクが丁寧に教えてくれる。
かといって、そんな月曜から逃げることは、やはり今の世界に生きるものとして死を意味するのだろう。少なくとも貧して、飢えて、苦しむのは目に見えている。そんな不安が僕を未だ会社にい続けさせた。勿論、過失の責任も果たさねばとも思っている。

 もし僕に足りないところがあったとするならば、そう、僕はあまりにも普通だった。自身に少しの才気を見出したとしても、それは金にならないもので、仕事の上では必要としてくれないものだった。
いうなれば、ファンは多いし素晴らしい人柄だけど大したプレーの出来ないスポーツ選手と言ったところか。勿論、僕にファンもいなければ人柄も決してよくは無い。単純なたとえ話だ。または良い奴なんだけど演奏が下手なバンドマンといったところか。非は無い。けど光るものも無い。そういう平々凡々の、詰まらない人間だったということを、仕事をしていくうえで知ったわけだ。
 エラーの数は増えていき、不協和音も鳴りだした。揺らいでいるポジションに目を光らせている後輩たち。廃棄の決定を捺そうと構える上司。僕に発破をかけるつもりで呼ぶ酒の席では、誰某は上手くやっているから見習えだのという話に始終するばかりだった。
要するに限界だと思わされた。余地があったのだとしても、少なくとも今の僕には見えなかった。
 居場所も危うくなり、将来も危うくなり、毎夜毎夜が苦しくなった。笑いかける先もなく、テレビにも心動かされることなく。
 誰かがサーモカメラで僕の部屋を覗けば、すぐに僕がどこにいるのか解ってしまうだろう。ベッドの上に赤い熱源。その他には何もなく、蛍光灯が僅かに暖かい色を出している以外は全て青。
 鈍く、何とか輪郭を留めようとするに過ぎない青。黒い背景に、機械の熱だけが僅かに鮮やかさを描くに過ぎない。くすんだ緑と四角い青さばかりが映えるこの部屋で、僕一人が熱源となって映るのだろう。
 そんなことばかり考えて、目を閉じる毎日が続いた。枕に押し付けられる自分の脳の血管が脈動する度に、まだ生きているのだなと思い出せる。寝不足で体がぎこちなくなるたびに、まだ動くのだと痛感できる。腹が減るたび、まだ何かを欲している自分がいることに気づく。
ここが限界なのだと今は思う。色々と、限界なのだと。黒い道だけが僕の前に広がり、ネガのように反転した太陽の存在だけがわかる未来を見てしまったような気分だった。暗く、白と黒でしか物事を見いだせない世界。

 大きく話が飛んでしまった。やや愚痴っぽくなってしまったから話を彼女の話に戻そうと思う。
 そんな折に、そんな状態だったからこそ、彼女への思いが募っていってしまった。藁にもすがる思い、とでも言うほどに僕は救いを求めていたのかもしれない。安らぎが欲しくて、生きていける材料が欲しくて。彼女を欲してしまったのかもしれない。
 そんな思いを堪えきれず、食事に誘い、僕は彼女に告白してしまった。というのが一昨日だった。
 彼女は否定の意図はないように微笑んだ。けれど、やや困った顔でこう約束した。
 「少し考えさせて。なるべく早く返事はするから。」

僕は信じてしまった。その日まで話してきた中で、僕を拒絶するような様子は見せなかったし、寧ろ好意的に僕の話を聞いてくれていた。今は思い出せないけれど、僕をそれ以上に評価しているかのように言ってくれさえした。何より、優しい人だと言ってくれたということが自信にさえなっていた。
だから待ち続けていた。急な事だったから、考える時間が欲しいのも無理はないだろう。そう思った。思うことにした。
1日目はまださすがに早いだろうと思った。
2日目、返事が来ても良いだろうと期待していた。一日中、どこか浮き足立っていた。しかし、返事はなかった。
その日、寝る支度をする頃には期待は悪い予感に変わりつつあった。
 そして、3日目。未だ返事届かず。仕事中もそのことが頭から離れなかった。
 単なる照れ隠しなのか、などと都合のいい解釈をしてみたりした。
 忙しいのかな、と常識的な解釈もしてみた。それでも、就業時間間際になっても返事は来ず、彼女の姿も見る機会もなかった。

 その日は仕事も多く、忙しい日だった。いつも以上に疲れていて、節約の為にと自炊する気力も起きず、近所のスーパーで値引きした弁当を買って家路についた。
 45度の角度で目線を下げながら、何も見ないように、見えないように歩いていると自身の住まいが目に入る。ありふれたアパートである。ボロくて、けれど汚いような印象ほどは受けない中庸の住まい。僕に相応し良い住まいだ。ここに「帰ってきてしまった」というような印象さえ受けた。いつもの場所。変わり映えのしない毎日の象徴なのだろう。特筆すべきこともない、ただの寝る場所でしかないのだ。
 階段を上がっていき、部屋のカギを開けようとしたとき、ポストを覗くのを忘れていたことに気が付いた。約一週間前にネットで買った物が着いているかもしれない。そろそろ届いても良い頃だ。中途半端な大きさだからポストに入っているかも。そう思って階段を快活に降りて行った。
 ポストを開けると、いつものようにチラシが数枚入っている。ややがっかりした。
 手に取ったチラシの金額部分だけ斜め読みする。
何枚目かのチラシの裏に封筒が入っている。茶封筒が一通入っていたのだ。時々来る自治会費みたいなものだろうか。表面に何も書かれていないことを確認して、裏面を眺めた。
そこには「安井みわ子」なる文字が。忘れもしない名前が書いてあった。彼女の名前だった。

一気に僕は現実に戻された。疲れは一瞬で吹っ飛んだ。彼女からの連絡があったことが嬉しくてしょうがなかった。
けれど、何故手紙なのか。考えてしまった。
そして僕は、喜ぶことを辞めた。
自信は砕け、血の気が引くような思いがした。あれだけ願い続けていた、思い続けていた希望がここで断たれることが分かってしまった。
前時代的な手紙を何故わざわざ寄越したのだろう。メールでもいいじゃないんだろうか。手紙は何のために使うのだろうか。
 「言えないことを伝える為に」
 最近、手紙が趣味になったと微笑みながら、そう語っていた彼女の顔を思い浮かべる。
 そして、僕は手紙がいつ書かれたのかに気づいてしまった。
 僕が彼女に愛を伝えた日から三日目。おそらく、最短時間だった。
 その日の翌日には心は決まっていたのだろう。だから、一筆書いて投かんした。
 
 封筒を開けると、やはり断りの旨が記されていた。友達でいましょう。いい人がもっと見つかりますよ。そんな文だった。
世の中思った通りにはならないなんて言うけど、それは十二分に味わってきたけど、それでも辛かった。どれだけ願っても、どれだけ愛していても、どれだけ一緒にいたいと思っても、届かない願いがあるのだ。あるというよりも、僕にはそういった闇が常に待ち構えているのかもしれない。思えば思った分だけ、期待し期待した分だけ、願いの遠さと儚さを思った。
 大学受験で、数値化可能な物ならその結果にも納得がいく。けれど、僕は全身全霊で過去も今も未来も語った。二人で楽しくしゃべり、彼女の求めるような人間であろうとした。会話を重ね、幾度も笑いあい、愚痴を言ったりと短いながらも楽しい時間を過ごした。
けれども、「ご期待には添えません」でした。そういうことだったのです。
 
 天から垂れている糸が、もしくは意図がプツリと切れる音がした。掴み損ねたその糸は細く、いとも簡単に手を滑っていった。暗に仄めかされたその意図ははっきりと、僕の耳に聞こえるようだった。何も残らず、何ものにもなれなかった。天の思惑は僕を見限り、運命は僕にあるがままにと今の辛い現実を与えたのだろう。天は笑顔で、さも仕方ないといった風に、僕にこの現状を与えた。
 笑っている。
 どうして、笑っているんだ。
 人の不幸を。
 絶望感から、今度は怒りさえこみ上げてくる。そして、それはすぐに沈下し、悲しみを呼んだ。
 僕は彼女を求めるばかりだった。与えることも考えず、藁だと思いしがみついたに過ぎなかったのだ。どこのだれが、しがみつくだけの人を選ぶのだろうか。僕は彼女を不安のはけ口にしていた。この文を読み返して、僕は「生きている材料が欲しくて」などと書いている自分が恥ずかしくなった。結局、僕は自分の為に利用しようとしただけなのだと。
一方的な勘違いと過信が生んだ、悲しい希望だったのだと思い、そして、自らを責めた。
僕自身の願いを叶えることばかりに腐心して、彼女が何を欲しているのか考えていなかった。何をしてあげられるのか、そういった想像力が働かなかった。
 おそらく、僕自身であればいいと思ったのだろう。どんな僕でも愛してくれるという、根拠も証拠もない理想にすがった。そして、勝手に期待して、勝手に絶望した。そうして、僕の恋は終わった。
けれど、僕は少しでも君を愛せて良かった。それだけは思う。明日も良いことがあるかもしれない、という気がしてきた。

こうした自問自答を果てしなく続けた。結果、僕はすがってしまった。とりあえずで良い。楽になりたい。家に酒もない。タバコも吸わない。1人で自慰にふけっても、何の慰めにもならない。それでもヤケ酒でもしたいような気分だ。だから浴びるように飲もう。明日は休みだから、今からコンビニに酒を買いに行こうと思う。
 とりあえず、僕はひと眠りしようと思う。仮眠してから、酒を買いに行って。それで、全てを忘れよう。自身の醜さに潰されないように、またの月曜から振り出しに戻れるように。

 「辛くなったら呑んでください」
そう医者から渡されたらしい薬が視界に入ってきた。俺は無心でそのビンを取った。少し前、たまにはと俺が誘った飲み会の時、自虐なのか自慢なのか分からない曖昧な口調で見せびらかされたそのビンだった。 
 斜線で締めくくられた手紙を、というよりレポートパッドを読み終えて、元から置かれていたちゃぶ台の上に戻す。そして、俺は改めてあたりを見渡した。
半開きのフタ、散らばる錠剤。向こうのデスクに伏せるユウタ。
彼の手の下には封筒があり、「安井みわ子」の名と住所が書かれていた。
ちゃぶ台には他に、食べかけのコンビニ弁当があり、やや異臭を放っている。
くしゃくしゃに丸まった便箋がいくつもゴミ箱の中に。

俺は生死を確かめることぐらいすればよかったのかもしれない。
だができなかった。正確に言えばしなかった。
恐れだろうか。いや、諦め故なのだと思う。
揺れ動かしちゃいけないような気がした。
例えるなら、それは蝉の死体ではなく、抜け殻を見るような気持ちになったからなのだと思う。
蝉の抜け殻を見て、どこか安心するだろう。無事に、成虫になれたのだと思えるだろう。次があるのだと思いはせるだろう。湧き出てきた感情はそんなものだった。
ごくありふれた風景のようにユウタは座っている。
あるべき姿のままで。そうしておくのが一番良い気がした。
警察の事情だとかもあるが、なにより、邪魔しちゃいけないような気がしたのだった。

部屋は必要以上に冷たく、暗かった。凄惨さなど微塵も感じられない、静かな部屋だ。
 酷い話だけれど、ユウタの魂の抜け殻は、とてもその場の空気に馴染んでいた。熱も、概念も何もかもが部屋に溶けだして、不思議な一体感が漂う。
 すべてが力なく存在して、肩ひじ張らずにいた。  
 もう一度ユウタの顔を覗くと、その寝顔はあまりにいつも通りだった。幼い頃、何度も見てきた、寝顔そのものだった。
小さい頃は小説家になりたいと言っていたユウタ。自分の事をさも他人のように書いて、踏ん切りをつけるつもりだったのだろうか。そして、みわ子さんには一筆認めようとでも思ったのだろうか。封筒はその準備だったのかもしれない。

 回りくどくて、不器用で。我儘で。それでも、俺にとってかけがえない友達だった。いつも色々なことに悩み、常に人の幸せを願っていたようなお人好しだった。
馬鹿な俺だから本はからっきしでも、ユウタの書く話は面白かった。毎回読ませてもらった。尊敬すらしていたくらいだ。あいつがいなかったら、もっと浅はかな人生を送っていただろう。本を好きになることができたのもあいつのおかげだった。
 だから、他の誰もが言わなくても、俺はあいつの幸福を願わずにはいられない。「天使の腕の中で飛び去っていった」あいつの大好きな歌を思い出すことくらいしかできず、安らかたらんことを願うほかない。

 通いなれたこの部屋のCDラジカセの電源を入れる。CDラックを勝手に漁り、葬式ではこの曲をかけてくれといつも言っていてたあいつの大好きな曲をかけてやる。一曲リピートにして永遠に聞いていられるように。

俺はちゃぶ台の上のユウタの文が書かれた便箋を拾い、折りたたんでポケットにしまい込んだ。音を立てないよう玄関のドアを閉めて出ていくと、部屋はまた空っぽになった。 
そして、110をコールする。

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