2014年8月22日金曜日

ゼロの印

 突然の通り雨だった。
 視界は多量の雨粒で白くかすみ、ノイズのような雨音が街から喧噪を奪っていく。
 落ち葉が雨の川に乗って排水溝へと注ぎ込み、吸い殻はふやけて腐っている。
風が傘を薙ぎ払うように吹き付けて、目の前の女性は足を止め、折られないように耐えている。
 一方で、傘もなく、雨宿りできる場所も無い僕。
ジャケットは水を含み重さを増し、ポリエステルの無駄に冷たいワイシャツが肌にまとわりつく。
 最早、雨など気にする余裕もないほど、僕は落ち込んでいた。
僕は選ばれなかった。
なんとなくだが、どこにも確証はないが、確かな手ごたえの無さを感じていた。
彼らの目は宙を泳ぎ、笑みもなく、好意的な反応の一つも見えやしなかった。
僕の自慢大会、自己紹介大会みたいなものだった。
諮問会を終えた今、僕の口の中は恥ずかしさみたいな不味い唾だらけだった。

 諮問会。これは僕ら「こども」にとって、この社会に組み込まれるための試練だった。
多くの者は経験している。
別に必須の儀式でもないが、成功を目指すものの多くは、一般を目指すものの多くはこの試練を乗り越えて神になっていく。
 神とは何かということはさておいといて、少なくとも並みに生きていくには万人がこの試練を避けては通れないのだ。
 そうして僕は30個目の諮問会の扉を開き、それが終わって今に至る。
空気が水分を保持しきれなくなり、溢れ出た、この土砂降り雨のような今の気持ちに至る。 
 
 諮問会を開くのは通称的に「神」と呼ばれている人々だ。「救いの手を差し伸べる」ところからそういわれるようになった。
彼らは「縁」をつかさどり、僕ら一般階級の「神ならざる者」 、通称「こども」に対し諮問会を開き、僕らを「神見習い」として手元に置く。
 神見習いとなった僕らのような 「こども」は、各「神所」で経験を積み、「準神」や「副神」と言ったものになっていく。見習いのまま終わるものもいれば、「堕天」として神所から追放、または退出して忌まれるものもいる。心身を病み「鬼」となるものもいる。
 神の世界はこうも殺伐としていて、
 稀に神から役職を受け取らないものもいるが、極めて稀な例である。
両親が大金持ちであったり並外れた才能やセーフティーネットを基に、自ら創造主となり社会に影響を与えていくに過ぎない。
 中には貧乏神の一部になり暴虐の限りを尽くすような者も中には出る。
 中には後世に名を残すような者もいる。
八百万なだけ神が存在すれば、そこに至るまでの道のりも複雑で険しいモノなのである。

 ちょうど30個目の諮問会は、僕が最も「縁」求めていた神所だった。
 幼い頃からその恩恵に授かり、 いつかあんな神になりたいと思っていた。
 諮問会以前の科挙と呼ばれるステップを超え、数千の中から諮問会へ招かれ、期待に胸を膨らましていたものの、その期待は風船のようにシューっと音を立て、萎んでいくのがわかる。
 同期の「見習い候補生」達には弱音を散々吐いてきたものの、いざその状況を味わうとなると大きな喪失感に襲われる。
 手を椀にし、落ちる雨を溜めてみる。
 これだけたくさん降っているのに、全くたまらない。
 指の隙間から水は零れ落ち、多くの水の一つに帰っていく。
 どれが僕の溜めた水かも分からない。
 どれが僕の流した水かも分からない。
 目頭は熱くなり、胸はきしむ。
 雨に濡れた体は寒さで震え出しそうで、頬を伝う水滴が雨なのかも分からない。
泣けたらどんなにいいものか。
 涙を流すだけの何かをしてもいないで、何かをすることもできないでいて、泣くこともできなかった。
 
 肌寒さに震えながら僕は家を目指した。
気取ってか、悲しい火照りを覚ますためか、僕は足早になることもなく、ゆっくりと雨に打たれ続けた。
 天罰だと思いながら、雨に身を浸し続けた。

 一瞬、スッと冷気が立ち込める。
 坂の途中で真っ白なスーツの男とすれ違った。
この土砂降りの雨の中、傘も差さずに歩いている。
 けれど、草臥れた様子も、急ぐ様子もなく、超然と歩いている。
 それだけでも目を引くが、その白いスーツは光さえ放っているように目についた。
雲の白とも、綿の白とも違う。
 雪。
そうだ、雪のように白く、冷たい色。
陽光を跳ね返し、あたりを白く染める雪の色。
こんなクソ暑い日にしゃきしゃきと歩き、その雪のようなスーツを身にまとうその男に、強烈な印象を覚えた。
変質者とも、風格とも違う、異質な感じが漂う。
一瞬すれ違っただけでもその男の様子が分かるほど、その姿は深く脳に刻まれた。
  気になって後ろを振り向いて見たが、その男はもういなかった。
人込みに紛れたのか、 どこかで曲がったのか。
もうもうみあたらなかった。

 さすがに雨に当たりすぎたのか、酷く寒くなってきた。
暗い気分よりも、どこかで雨宿りしたい気持ちが強まる。
諮問会のあった神宿EWタワーから官庁街を抜けると、雑然と店が並ぶ裏路地のようになっている。
 雨宿りできるところは無いが、高い建物に囲まれ風雨は防げる。
やや遠回りだが、そちらから帰ることにした。
傘を持ち歩いてる準備のいい者も多いようで、何度か他の人の傘にぶつかりながら足早で向かった。
 このあたりは細い路地裏的な道が多く、こじんまりとした居酒屋が軒を連ねていたりする。
ゴミ箱と自販機だらけの道もある。
 そういう場所を通ると、なんだかもの悲しく思えるものだが、自暴自棄にさえなりそうな今の僕はゴミにすら親近感を覚える。
 選ばれなかった者として、「ゴミ」みたいな者として親近感が湧く。
なんとも情けなく感傷的な話だが、縁すらも、藁さえもつかめないでいる僕にとっては慰めの「な」の字くらいにはなるほど、薄汚れた街に少し落ち着きを感じた。
 
 「ジョウジ」

突然後ろの方で名前を呼ばれた。
男にしては甲高く、鼻にかかったような声だった。
それでいて怪しく、剣呑さが伝わる。 
柔らかさは皆無、僕の知らない声だった。

 「イシキカ・ジョウジだな」

本名まで呼ばれた。
間違いなく、「石木家 丈二」と僕の名前を呼んだ。
友達の少ない僕をいったい誰が呼ぶのか。
諮問会の為に訪れた大したゆかりもない土地で、いったい誰が呼ぶのだろうか。
 薄暗い路地裏だ。
いかがわしい雰囲気のお店も多くある。
因縁でも吹っかけられたのかと、怖くなった。
さっき、歩いてる途中で怖そうなお兄さんにぶつかったけか。
心臓の鼓動が速くなる。
臆病者の僕はゆっくり振り返ることなどできない。
専守防衛。

 僕はぱっと、体ごと後ろに振り向いた。
 ヒヤリと、冷たい空気が頬なでた。
 5m位先にはあの白スーツの男が立っていた。
僕はなんで不思議と不安で目を見開き、ただ白スーツを凝視した。

「やはり、俺が見えているな」

肌まで白く、髪はオールバック。
怖い人、というよりキザな人という印象を受けた。
それでいて醸す空気は冷たい。
その冷たさは実際の温度を以て僕に迫ってくるようだった。
 白いレザーの靴をカツカツとならせて僕に近づいてくる。
近づく度にわかる。
この雨の中、その男は濡れてもいなかった。
スーツもスラックスも、乾いているようにシャキッとしている。
全身白に包まれた体には言ってんの汚れもない。
靴さえも真っ白でだった。
  男は僕の手前に立ち、僕の顔をジロジロ見聞する。
首を傾け横顔を覗き、見下すように頭頂を眺める。
物珍しそうに首から下に目線を落とすと、今度はつまらなそうに視線は僕の目にまで戻ってきた。
目と目があう。
白スーツの男の目は青かった。
彼が放つ雰囲気のように冷たい虹彩、氷河のクレバスより深い闇のような瞳だった。
その明暗の明白さがは美しくさえあった。
直視された恥ずかしさと、彼の雰囲気の怖さで、僕は何をしたらいいかわからず、ただ黙々と耐えていた。
 
「力が欲しいか」

彼はいきなり聞いてきた。
どこの空想世界の話だよ、と思いながら僕は一気に覚めて、冷めた。
 冷めたというより、それは反感に近く、怒りに近いものだった。

「力ってなんですか。」

「力は力だよ。お前困っているだろう。」

「僕には人を助けている余裕なんかありません。スーパーパワーならもっと適任がいるはずです。」

「俺はお前に聞いているんだ、他の奴の話をしているんじゃない」

「僕はやんわりいらないと言っているんですよ、わかりませんか」

「まぁ話ぐらいき…」

「困っていると言ったって、僕は諮問会を経て神見習いになりたいんですよ」
「何かの能力とかで人を助けたい、というのが悩みじゃないんですよ。」

「僕が欲しいのは神託です。神見習いになれる神託です。」

「だからそのための力をやろうという話をしているんだ」
「だいたいなんだっていきなりスーパーパワーとか言い出すんだ、そんなものあると思っているのか」
「漫画の読みすぎは良くないぞ、常識で考えろ」

 いつになく饒舌なような気がした僕は、その言葉を聞いて黙った。
諮問会の為の力?神託の為の力?そんなものあるのか。
いや、存在は知っている。
コネクションズという団体があり、そこから神託を受ける者。
ヘレディティという先天的な神託を持つ者。
そういったモノとは無縁だからこそ、僕は今現在こうして諮問会巡りをしているのだが。
しかし、白スーツは力と言っていた。
饒舌に喋れるための教材でも売りつけられるのか、闇の根回しの類か。
どちらにせよ僕にそんな金はない。
しかし、こうして何度も神託を受けられずにいる僕にとって、神託の為になるものはすべて甘美な響きに聞こえた。
エージェントと呼ばれる団体の活動については調べて活用はしているし、「絶対下がる神託!」などと書いてある本はあらかた読んだ。
宗教めいたものに手を染めそうにもなった。
僕はそれだけ焦り、憔悴していた。

「神託を…受けられるんですか」

「そのための力だ。絶対とは言えない。だが、そのための力だ。」

「危ない事じゃないんですよね」

「もちろんだ。闇の者でも詐欺でもない。」

何故か信じられる気がした、強い言葉だった。
彼の言葉は僕に妙に信頼感を与えた。

「あなたはいったい何者なんですか。」

「 ある組織の人間だよ、お前は知らないしよくある名前だから言っても無駄だし、正直何してる神所なのかも俺にも分からねぇ。色々やってんだよ。」

 白スーツがある神所の人間なのはわかった。
しかし、こんな白スーツを許す神所があるのかと、常識を疑う。
真っ白はないだろ、真っ白は。
そして話してみると分かるのだが、雰囲気に比して和やか喋り方をする。
頼りがいがあるような気さえする。

「ただ、人助けをしたいっていう組織かね。皆が平等にチャンスを得られる世界にすんだ」
「俺も苦労した。だから今こうして、苦労してるお前の前に出てきてるんだ。」
「もう一度聞く。考えさせては無しだ、ハイかイイエで答えろ。」
「力が欲しいか」

「はい」

言葉がポンとでた。

「分かった。」
「ならば力をやろう、手を出せ。」

僕は右手を白スーツに向けて差し出した。
彼は空に掌を向けた。
僕の視線もそちらへ向く。
何かが落ちてくる。
雨はいつの間にか止み、太陽が顔を出しつつある。
その光の反射か、僕のプラシーボか。
空から何か光るものが降りてきた。
降ってきた。
それは白スーツの上げた掌に落ち、一瞥もせずに僕の掌にそれを置いた。

「ナイティ・ゼロ」
「それがお前の力の名だ」

2014年8月10日日曜日

メアリーの白兎(1)

 夢うつつの中、妙な歌が聞こえてきた。
 ハミング。うめき声。儀式。念仏。
 そのどれでもない、けれどそのどれかが合わさった音が聞こえてきた。
どこかで聞き覚えがある、どこで聞いたのだったろうか。
酷く懐かしいような気がする。
これは夢か、現実か。
よくわからないけれど、なんとなく目を覚ました方がいいような気がした。
誰かに起こされているような気もしたし。
背中がチクチク、ごわごわする。
 僕は身をよじりながらゆっくり目を開けた。

 「はぁい」

 目を開けると、金髪の少女が僕の顔を覗き込んでいた。
その子の顔と、紅葉した木々が僕の視界を占めた。
肌はやや焼けていて、髪はごわごわ。
肩まで伸びたその髪は、一本一本の太さを感じさせるほどボリューム。
目はトパーズのように茶色で、その視線は真っ直ぐすぎてたじろぐほどだった。
彼女の背中を縁取る紅葉した葉のように、鮮やかで静かな瞳。

 「目の悪い人は、目の色がすごくきれいなんだよ!」

 少女のその声が僕を急に恥ずかしくさせた。
僕はなぜにそんなにも顔をまじまじと見られているのだろう。
頬緩ませ、屈託のない笑顔を彼女は送ってくる。
気恥ずかしさに目を反らすしかなく、片手で自身の顔を覆った。

「メアリー、いったい何の用だい?」

 眩しすぎる彼女の笑顔を遮りながら、僕は自身がそんな言葉を発したことに驚いた。
 メアリー。
僕は彼女を知っている。
プライマリースクールで一緒だった子だ。小動物みたいで、いつも何かと跳ねていた。
文字通り、ピョンピョンと常に跳ねているような子で、白い服ばかり着ていたからウサギちゃんと周りから呼ばれていた。
髪の毛の太さもどこか野性味を帯びていて、天真爛漫な性格だったせいもあるかもしれない。
  彼女自身もウサギが大好きだったらしく、彼女はその呼び名を喜んだ。
 クラスの演劇ではアリスのウサギをただ一人やりたがっていた。
 皆が皆、やりたくないだのと言っていた中で、彼女だけは元気よくウサギ役を買って出たものだから、鮮明に覚えている。
 そして何故かその時、僕はアリスだった。

 「久しぶりに会ったというのに失礼ね。私のこと覚えている?」
 「今、メアリーと君の名を呼んだだろう?それに脅かしたのは君じゃないか。」
 「それもそうね」

 彼女はハニカミながら、おどけるように笑った。
僕は溜息を一つ吐き出しながら体を起こし、背中に付いた落ち葉を払落し、手の平をはたいた。

 「アリス君、今日はどうしてこんなところにいるの?」
 「その呼び方はやめてくれと何度言ったら…」

 彼女に「こんなところ」と言われて、僕はここがどこだか分からないのに気付いた。
 家の近くの公園で本を読んでいて、仮眠でもしようかと思ったのは覚えている。
でも、間違いなくベンチの上だったし、そもそもなぜメアリーがいるのだろう。
彼女はとうの昔に遠くへ行ったはずなのに。そもそもなぜ、彼女はあの時の姿のままなのだろう。
少しも大きくなっておらず、あの時のままだった。
あたりを見回しても、林の中でここがどこだかよくわからない。
茶色の落ち葉の絨毯と、木の茂る、継ぎはぎの空が見えるだけだった。

 「ここはどこ?」
 
僕はたまらず聞いた。

 「知らない。私もついさっき、気付いたらここにいて、アリス君を見つけたの」
 「アリス君はやめてと…」

 僕にも男の矜持があるにはあるので、女扱いされるのは好きじゃない。
 というよりも居た堪れない。ズボンのファスナーを下ろしたまま気づかずに街を歩いてるような気恥ずかしさだ。
どんな理由があろうと、相応しくないその呼び名は、どこか申し訳なくさえ覚えるものだ。
  
 「ほら、続きをしましょう」

 そんな僕の逡巡を気にも留めず彼女は僕の手を引っ張って、木もまばらな小さな空間に僕を連れ出した。
 続き?何の続きだろう。
 なんだか約束したような。
 約束とは違う、何か、もっと大切な。
 大切なようで、現実感の無い何かが。
 何か。なんだか、分からない、何かが。
忘れている、何を?忘れた?忘れようとした?
頭が、脳がきしむ。酸素が不十分なような息苦しさ。
人の脳は否定をできないらしい。
ウサギを思い浮かべないでください、と言われると思い浮かべてしまうそうだ。
ウサギを、僕は思い浮かべられない。
その色も、顔も、覚えているはずなのに。

「アリス君?」

 メアリーが僕の肩を叩いた。
 僕は何かに躓いたようで膝を地面につけていた。落ち葉がクッションになって大したケガはしていないけれど、摩擦したような痛みが右ひざを襲う。
 ヒリヒリと。

「大丈夫?」
「あぁ、ごめん。大丈夫だ」
「なら良かった。行こう!」

 メアリーはけがの事など気に留める様子もなく、僕の手を引っ張った。
 相変わらず身勝手な子だった。

 以前も、似たようなことを思った。
 演劇の発表の日だった。僕はアリスの恰好が恥ずかしくて、逃げ出した。
 衣装を着たものの、人の前に出ることを想像した途端、あまりの恥ずかしさで僕は気が狂いそうだった。
 いじめられる。男女だとか言われる。いつまでもそれでからかわれるんだ。
 僕は図書室に逃げ込んで、大好きだった「テラビシアにかける橋」を読んでいた。
入口からは絶対に見えない本棚の裏で、うずくまって読んでいた。
皆は体育館やクラスにいるし、運よく司書もいない。
誰も図書室にいないから誰にも見つかることもないと思っていた。
 僕が逃げていたら、皆に迷惑をかける。 それは分かっている。
主役のいない劇は始まらない。
他の誰にもできない役なのだ。
それでも、逃げ出したくなった。
何かにしがみつきたくなった。
 逃げ出した先で、僕は大好きな本を見つけた。
読み始めるとやや心が落ち着いた。
その一方で、罪悪感が芽生えてくる。
すごすごクラスに戻るのも、バツが悪い。
意固地になった僕は、何度も時計と本へ視線を行き来させる。
後30分で時間だ、でも、合わせる顔なんてない。
それでも行かなくちゃ。
  僕は立ち上がった。

 目線の先にはドア、そしてメアリー。ドアの前に立っていた。
のほほんと立っていた彼女は、僕を見つけて、微笑みかけた。
 メアリーは待っていた。
僕がここにいると知って、急かすこともなく待っていた。

 「行こう」

 そういってメアリーは僕の手を引き、体育館に連れて行った。
 僕の腕をつかむ手はあまりに強引で、少し痛かった。
 履きなれないハイヒールめいた靴で転びかけた。

 「大丈夫?」

 僕は頷き、僕らはまた走り出した。
 それでも、離れないメアリーの右手の力強さは、僕を離すまいと必死だった。
メアリーの握る、ぎりぎりとした痛ささえも温かく感じた。

 連れて行かれた先の舞台の横で、僕はややなじられもしたけれど、やりきった。
 終演後、拍手を浴びた。
嬉しかった。楽しかった。
面白かった。気持ちよかった。
言葉が足りない。
劇中では鳴りもしなかった動悸が止まらなかった。
 僕が今も市民劇団に所属しているのはそういうことがあったからだ。
演劇の楽しみをしり、僕が僕じゃなくなれ、あくまで僕が僕である場。
そして、握られた手の痛みが、僕を不思議の国に連れて行ったのだ。
 
 そう、それは5年次の時だった。思い出した。
 今、目の前にいるメアリーはあの時の恰好のまま、白いウサギのように僕の手を引く。
白いワンピースを着て、裸足だった。
 落ち葉と枝だらけの林を裸足で駆けて、僕を連れていく。
 いったいどこに連れていくのだろう、このウサギは。
 不思議の国へでも連れいていくのだろうか。

 「ついた」

息をやや切らしながら、独り言のようにメアリーは言った。

 そこは僕にとっての不思議の国だった。 

続く(多分)


2014年8月9日土曜日

夜のピクニック / 恩田陸

恩田陸の「夜のピクニック」を読了。
 延々と歩いているだけの話ですよ。でも、何かに向かって延々と歩くって多くの人はやらないと思うのです。
というか、やれない。
仕事、勉強、部活、家庭。恋愛、交友。多くのなんだかんだでしなきゃならないことに追われているんだと思います。
しかも、誰かの意志と思惑が働いていて、あぁ、なんでこんなことしてるんだろうと思う時ってあると思うのですよ。
 でも、この本を読んで、意味もなく誰かと(一人でも)歩き続けて、
「それどころじゃない」気分で露わになる思いというのは良いものですよ。
 そんな歩くだけを追体験できると思うんです。



 一緒に誰かと歩きたくなる。歩くことも良いことだと思える。

重力と、地面と、生物の限界を感じながら、共に生きる喜びを知る。
 リタイアしていい世界で、リタイアしたくない何かを見つけた時、それって素敵なことだと思える。
 それと、一期一会はやっぱり大事で、人と人の出会いって無下にしちゃいけないんだと思うのです。
 誰かと一緒にいられるっていいことだな、と思うわけです。
 お金も性別も場所も関係なく、全てを楽しくしようとした子どもの頃に戻りたいな、そう思いました。
 (今の若者は純粋さがやや足りないよ!)

とりあえず、美味いとしか言いようのない文でしたよ。
主人公以外の各人の物語がスクッと入ってきては抜け出て、最後には大団円を迎える。一本の話でまとまっているオムニバスともいえるように、短いながらも入り込んでしまう。
終わりの迎え方も秀逸で、素晴らしきスタンダード。
美味い文章とはこういうことかと本当に思うのです。