夢うつつの中、妙な歌が聞こえてきた。
ハミング。うめき声。儀式。念仏。
そのどれでもない、けれどそのどれかが合わさった音が聞こえてきた。
どこかで聞き覚えがある、どこで聞いたのだったろうか。
酷く懐かしいような気がする。
これは夢か、現実か。
よくわからないけれど、なんとなく目を覚ました方がいいような気がした。
誰かに起こされているような気もしたし。
背中がチクチク、ごわごわする。
僕は身をよじりながらゆっくり目を開けた。
「はぁい」
目を開けると、金髪の少女が僕の顔を覗き込んでいた。
その子の顔と、紅葉した木々が僕の視界を占めた。
肌はやや焼けていて、髪はごわごわ。
肩まで伸びたその髪は、一本一本の太さを感じさせるほどボリューム。
目はトパーズのように茶色で、その視線は真っ直ぐすぎてたじろぐほどだった。
彼女の背中を縁取る紅葉した葉のように、鮮やかで静かな瞳。
「目の悪い人は、目の色がすごくきれいなんだよ!」
少女のその声が僕を急に恥ずかしくさせた。
僕はなぜにそんなにも顔をまじまじと見られているのだろう。
頬緩ませ、屈託のない笑顔を彼女は送ってくる。
気恥ずかしさに目を反らすしかなく、片手で自身の顔を覆った。
「メアリー、いったい何の用だい?」
眩しすぎる彼女の笑顔を遮りながら、僕は自身がそんな言葉を発したことに驚いた。
メアリー。
僕は彼女を知っている。
プライマリースクールで一緒だった子だ。小動物みたいで、いつも何かと跳ねていた。
文字通り、ピョンピョンと常に跳ねているような子で、白い服ばかり着ていたからウサギちゃんと周りから呼ばれていた。
髪の毛の太さもどこか野性味を帯びていて、天真爛漫な性格だったせいもあるかもしれない。
彼女自身もウサギが大好きだったらしく、彼女はその呼び名を喜んだ。
クラスの演劇ではアリスのウサギをただ一人やりたがっていた。
皆が皆、やりたくないだのと言っていた中で、彼女だけは元気よくウサギ役を買って出たものだから、鮮明に覚えている。
そして何故かその時、僕はアリスだった。
「久しぶりに会ったというのに失礼ね。私のこと覚えている?」
「今、メアリーと君の名を呼んだだろう?それに脅かしたのは君じゃないか。」
「それもそうね」
彼女はハニカミながら、おどけるように笑った。
僕は溜息を一つ吐き出しながら体を起こし、背中に付いた落ち葉を払落し、手の平をはたいた。
「アリス君、今日はどうしてこんなところにいるの?」
「その呼び方はやめてくれと何度言ったら…」
彼女に「こんなところ」と言われて、僕はここがどこだか分からないのに気付いた。
家の近くの公園で本を読んでいて、仮眠でもしようかと思ったのは覚えている。
でも、間違いなくベンチの上だったし、そもそもなぜメアリーがいるのだろう。
彼女はとうの昔に遠くへ行ったはずなのに。そもそもなぜ、彼女はあの時の姿のままなのだろう。
少しも大きくなっておらず、あの時のままだった。
あたりを見回しても、林の中でここがどこだかよくわからない。
茶色の落ち葉の絨毯と、木の茂る、継ぎはぎの空が見えるだけだった。
「ここはどこ?」
僕はたまらず聞いた。
「知らない。私もついさっき、気付いたらここにいて、アリス君を見つけたの」
「アリス君はやめてと…」
僕にも男の矜持があるにはあるので、女扱いされるのは好きじゃない。
というよりも居た堪れない。ズボンのファスナーを下ろしたまま気づかずに街を歩いてるような気恥ずかしさだ。
どんな理由があろうと、相応しくないその呼び名は、どこか申し訳なくさえ覚えるものだ。
「ほら、続きをしましょう」
そんな僕の逡巡を気にも留めず彼女は僕の手を引っ張って、木もまばらな小さな空間に僕を連れ出した。
続き?何の続きだろう。
なんだか約束したような。
約束とは違う、何か、もっと大切な。
大切なようで、現実感の無い何かが。
何か。なんだか、分からない、何かが。
忘れている、何を?忘れた?忘れようとした?
頭が、脳がきしむ。酸素が不十分なような息苦しさ。
人の脳は否定をできないらしい。
ウサギを思い浮かべないでください、と言われると思い浮かべてしまうそうだ。
ウサギを、僕は思い浮かべられない。
その色も、顔も、覚えているはずなのに。
「アリス君?」
メアリーが僕の肩を叩いた。
僕は何かに躓いたようで膝を地面につけていた。落ち葉がクッションになって大したケガはしていないけれど、摩擦したような痛みが右ひざを襲う。
ヒリヒリと。
「大丈夫?」
「あぁ、ごめん。大丈夫だ」
「なら良かった。行こう!」
メアリーはけがの事など気に留める様子もなく、僕の手を引っ張った。
相変わらず身勝手な子だった。
以前も、似たようなことを思った。
演劇の発表の日だった。僕はアリスの恰好が恥ずかしくて、逃げ出した。
衣装を着たものの、人の前に出ることを想像した途端、あまりの恥ずかしさで僕は気が狂いそうだった。
いじめられる。男女だとか言われる。いつまでもそれでからかわれるんだ。
僕は図書室に逃げ込んで、大好きだった「テラビシアにかける橋」を読んでいた。
入口からは絶対に見えない本棚の裏で、うずくまって読んでいた。
皆は体育館やクラスにいるし、運よく司書もいない。
誰も図書室にいないから誰にも見つかることもないと思っていた。
僕が逃げていたら、皆に迷惑をかける。 それは分かっている。
主役のいない劇は始まらない。
他の誰にもできない役なのだ。
それでも、逃げ出したくなった。
何かにしがみつきたくなった。
逃げ出した先で、僕は大好きな本を見つけた。
読み始めるとやや心が落ち着いた。
その一方で、罪悪感が芽生えてくる。
すごすごクラスに戻るのも、バツが悪い。
意固地になった僕は、何度も時計と本へ視線を行き来させる。
後30分で時間だ、でも、合わせる顔なんてない。
それでも行かなくちゃ。
僕は立ち上がった。
目線の先にはドア、そしてメアリー。ドアの前に立っていた。
のほほんと立っていた彼女は、僕を見つけて、微笑みかけた。
メアリーは待っていた。
僕がここにいると知って、急かすこともなく待っていた。
「行こう」
そういってメアリーは僕の手を引き、体育館に連れて行った。
僕の腕をつかむ手はあまりに強引で、少し痛かった。
履きなれないハイヒールめいた靴で転びかけた。
「大丈夫?」
僕は頷き、僕らはまた走り出した。
それでも、離れないメアリーの右手の力強さは、僕を離すまいと必死だった。
メアリーの握る、ぎりぎりとした痛ささえも温かく感じた。
連れて行かれた先の舞台の横で、僕はややなじられもしたけれど、やりきった。
終演後、拍手を浴びた。
嬉しかった。楽しかった。
面白かった。気持ちよかった。
言葉が足りない。
劇中では鳴りもしなかった動悸が止まらなかった。
僕が今も市民劇団に所属しているのはそういうことがあったからだ。
演劇の楽しみをしり、僕が僕じゃなくなれ、あくまで僕が僕である場。
そして、握られた手の痛みが、僕を不思議の国に連れて行ったのだ。
そう、それは5年次の時だった。思い出した。
今、目の前にいるメアリーはあの時の恰好のまま、白いウサギのように僕の手を引く。
白いワンピースを着て、裸足だった。
落ち葉と枝だらけの林を裸足で駆けて、僕を連れていく。
いったいどこに連れていくのだろう、このウサギは。
不思議の国へでも連れいていくのだろうか。
「ついた」
息をやや切らしながら、独り言のようにメアリーは言った。
そこは僕にとっての不思議の国だった。
続く(多分)
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