ネットが空間と時間という障壁を取り除き人と人を繋げてくれて、それぞれがネット空間に文字やコンテンツをそっと置いていく。そういった中に、自分の分身のような思いと興味を託しているはずなのに、それで人間関係が広がるわけでもない。
何のためにネットがあるんだろうなぁ、っていう思いが最近強い季節になってまいりました。
最近はマスコミの過剰報道や、twitterの右翼と左翼などの発言を見て閉口している毎日ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。罵詈雑言とエゴだらけの世界にいいかげん、僕もストレスがたまっているので少しばかり思うところを書かせてください。
先日、僕が嫌いだった人たちが悉く好きだったあるヴォーカルグループが結成何年とかなんとかを迎えたそうです。まだやっていたのか、という気持ちでしたが、その反応をTwitterで見ていくとまぁなんとも愛されたグループで。でも、実際、いじめっ子だってそういう物を唄うんだよね、憎かりし奴らも嬉々として唄ってたわけだ。僕が被害者(仮)にならない場合でも、何かしらの軋轢が存在していたことは見ているし、そういった人たちが完全無欠の善人である可能性はまずない。高校の頃なんかそんな人ばかりであったと思う。
世界に一つだけの花を含めて、結局、歌に力なんか無いと思わされる歌やグループなんかたくさんあると思い知らされたグループの一つだったわけだ。現代のJPOPは自分の恋ばかり歌っている。そういうのは結局、強者の讃美歌でしかないし、強者であることを正当化させる口実に使われたに過ぎない曲でしかなかった。たぶん、死ねって言われた人間は世界に一つだけの花なんか唄えないし、無視され敵視され続けた人間なんか、また泣いて笑って君と出会えた奇跡なんて唄えないだろう。最悪、君と出会っちゃった不運と愚痴をこぼす。むしろ面と向かってそう言われることもままあるのだ。稚拙な関係性と価値観が大多数を占める高校や中学なんてそんなもんである。しかし、どんなに綺麗言や理想が歌われても、それが人と現実に降りて憑かないのです。僕の趣味ではないが、音楽の限界をそのように目の当たりにするのはやはり悔しいわけである。彼らは愛や友情を唄えるのに、何故に友愛を唄えないのかと。
そんな中でもBump of Chickenは違ったはずだった。若者に大きな人気を博したが、彼らの歌は明らかに弱者のための歌だった。けれども、上記と似たように都合のいい部分のエッセンスだけ取り出して、結局また強者の為の讃美歌と化してしまったのは何故だろうと思ったわけである。少なくともm僕の周りはそういう人が多かったように思う。僕の大好きな「Super Nova」は若者にとっての「Imagine」になれるだけの名曲だったと思うが、多くの人はSuper Novaを直視していないだろう。藤原さんは僕にとってジョン・レノンになれるだけの詩を書いたと思うし、世界中で歌われたら良いなとさえ思う。
けれども、中学生や高校生は厨二病的にロックと解釈するに留まってしまった。天体観測からSailing day 、車輪の唄、カルマ。同時期の売れたアルバムという見方もできるけれど、やはりロック路線か恋の唄。結局多くの若者は恋とロックに埋もれてしまい、ビートルズ的な愛と平和はオールドファッションでしかない平和ボケの道を進んでしまった。藤原さんはビートルズ的な愛と平和を唄っていたと勝手に解釈しているが、そう感じた人はわずかだったように思う。もっと哲学的で、人の心理を抉るような歌でありバンドだったはずなのに、なんだか悔しいと思うのである。
音楽も恋も、好きだ!愛している!って言うのは構わないし、それは素敵なことだけれど、なんで好きでなんで愛しているかを言えないと、最期はただの娯楽に成り下がってしまう。好きだと思い込む気持ちに溺れたり、単純な快楽に身を任せてしまったりと、芸術はどんどん精神性と哲学を失ってしまうだろう。勿論、クラシックならそうはならない。少なくとも30分近く、作曲者や演奏者の精神の現れである音楽と向き合わないとならないからだ。けれどもポップミュージックは4分間だ。その間に、楽しいや悲しいなどの文脈を持った感情はそう簡単に表せない。ポップミュージックは一瞬を切り取った感情でしかないからだ。そのような一瞬の感情に身を任せることはまさしく、非理性的で快楽的で、即ち娯楽でしかないわけだ。
日本の音楽業界はパッケージングと単曲・シングル売りにより、音楽の娯楽化に拍車をかけた。勿論、音楽が娯楽でないというわけではないのだが、問題は恋の唄でありふれてしまったことだ。しかも、うなるようなグルーヴ感もなく、鳥肌の立つような歌唱力もなく唄われてしまった。非常に一面的な感情だけをポップミュージックは与えてしまったと思わざるを得ないのである。
だから、ポップミュージックはある意味で死んでいる。一瞬の出来事の焼写しでしかないと思うんだ。しかも、日本に限って言えば恋という感情だけを伝える一瞬しかなくなってしまった。だからそんな一瞬にも意味を持たせるために、何故好きなのか、愛しているのかを言えなくちゃならないと思うんだ。何度だっていうが「愛している」は特別な言葉ではあるけれど、小学生が語る「楽しかった」と大差ない言葉でしかない。そんな言葉に頼り切った愛はすぐに終わる。
女性に「私のどこが好きなの?」って聞かれれば何も言えないでしょう。いや、言えたとしても「それだけ?」ってなって、結局全部言う羽目になる。だから言えないのだ。時間の経過や過去を背負って立っている目の前の彼女は生き物だから、そう簡単に言えない。彼女には時間と物質的質量が地続きで存在する。そんな奇跡を言葉で言い表すのは難しい。
でも、彼女のパーツ一つ一つは違う。「私の髪のどこが好きなの」って聞かれれば答えられはずだ。髪そのものは生きていないから、手で触れて、サラサラなのか少し手に引っかかるのか、感触を伝えればいい。意志の無いそこに存在しているだけの彼女の一部があるだけでしかないのだから、それが何故愛おしく思えるのか伝えればいい。
それすら言えなかったら多分フラれるでしょう?僕が女だったらオサラバします。
というわけで、本当に音楽を愛しているのであれば、ポップミュージックに対して僕らは愛を語らねばならないと思うのだ。一曲一曲、1グループ1グループに愛をささやくこと、それが積み重なって音楽を愛せるように、そして自分を愛せるようになるのではないかと僕は思う。
芸術なんてのは作者の手を離れた途端、全て個人のものになり経験になる。結局自分の価値観とのマッチングの適不適でしかなく、ある曲を聞いてそう感じた!っていう感情はその人にしか起きないはずである。だから、音楽の心理的解釈なんて自分との直面でしかないはずだ。あまりに技巧に優れている場合を除き、音楽は自分との対話でしかない。
だから(女性と見立てるような対比を行ったけれども)他人を愛するように音楽を愛することは音楽を言い訳に使いすぎだと思う。音楽は自分の中に潜在的に存在するモノであって、誰かが提供してくれるものではないんです。つまり、モノじゃないんです。勿論、映像が付くと話は全く違いますが・・・。(それと実際、恋なんて自己満足だと思うので他人を愛しているようで実は自分を愛しているのだと思うのですが。)
ってここまで書いて、これこそ僕のエゴなのじゃないかと猛烈に反省しておりますが、こういう風に音楽を聞いているいる人間がいるんだよということを知っていただきたいだけなのです。
というよりも音楽を好きな人間が、人を貶したり無礼だったりするの許せないだけです。音楽は世界を救うって信じているだけです。本当にスミマセン。
ちなみに、音楽は世界を救うっていう言葉の80%はそう思いたいっていう願望でできています。何故なら、自分自身が音楽に救われたのだから、そうならない理由が思い当たらないからです。
非常に宗教的で、面倒くさい話ですね。でも、そんなもんでしょう。
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