さて、千と千尋の神隠しの話からRaymond Carverの短編、"small good thing"に話を移しましょう。
僕はこの短編の断片と一浪中に出会ったわけです。名文のリスニングと音読を兼ねて、という形でした。その本の数ある断片の中で一番好きだったのがコレでした。その2年後くらいに、大学の授業で扱った日には嬉しかったですね。再開したわけです。まぁ、クラスメイト達はなんだか投げ遣りで悲しかったですが。
簡単に言えばこのお話は、ある夫婦の子供が誕生日の日に事故に遭い、その後死んでしまって、消沈と激昂からほんの少し回復する話です。パンを食べて、少し気がまぎれる、本当にそれだけです。
千と千尋の神隠しの話から関係しますが、奇跡を認識することって本当に素晴らしいことだと思うのです。千尋の場合は、川で溺れて、「それでたまたま助かった」ということをハク(つまり川)が起こした奇跡だと感じて恋をします(面倒なので恋とします。)。
ただ単に運が良かっただけなのに、それを奇跡である感じとって恩義と思慕と共に大切な物としたわけです。ハクが名前を取り戻したときに「嬉しい」と涙を浮かべて、千尋は幸福を全身で受けていた思う。ハクの存在に気が付いた奇跡を感じ取って。
さて、この、a Small Good Thingの場合の奇跡とは何か。抗いがたい美味しいという感情がそれにあたるんじゃないかと思う。
この話に出てくる夫婦の場合、Scottyの死という絶望的な状況の最中、食物を貪欲に吸収する身体が感じた「美味しい」という感情こそがそれなので。
精神的どん底に突き落とされていた二人が、この世の終わりだという風にさえ思いかねない状況で繋いだ命の糧により、自分が生きている、という強い実感を与えたと思う。
それは本当に些細な、しかも本能的な充足だったと思うけれど、人間が疲弊しきった状態から何らかの糸口を掴んだ時の救いの感覚というのは言葉にできないくらい幸せだ。
味覚に至っては幸せは確実に感じられる。
カオナシの場合、暴走するまでに至った経緯は彼が千尋に救われたからであったように、「救い」というのは人間にとってあまりにも強烈だ。
それは、オウム真理教に魅入られた人々にもそうだったろう。僕にとっての音楽や、数少ない人間関係もそうだ。誰かにとっての恋愛なんかもそうだろう。救いに対して、人は心のバランスを崩してしまうくらいに、その奇跡にすがってしまう。それくらい人間は弱い生き物なのだ。
でも、些細な良い事(small good thing)というのは、この話のパンがそうであったように、本当に小さなことなのだ。そういった小さなことは気付かないだけで、あちこちに落ちている。
「偶然の一致というのは、ひょっとして実はとてもありふれた現象なんじゃないだろうかって。つまり、そういう類のものごとは僕らの周りで、しょっちゅう日常的に起こっているんです。でもその大半は僕らの目に留まることなく、そのまま見過ごされてしまいます。まるで真昼間に打ち上げられた花火のように、かすかに音はするんだけど、空を見上げても何も見えません。しかしもし僕らの方に強く求める気持ちがあれば、それは多分僕らの視界の中に、一つのメッセージとして浮かび上がってくるんです。その図形や意味合いが鮮やかに読み取れるようになる。そして僕らはそういうものを目にして、『ああ、こんなことも起こるんだ。不思議だなぁ』と驚いたりします。本当は全然不思議な事でもないのにかかわらず。そういう気がしてならないんです。」
これは、村上春樹の短編「偶然の旅人」の一節ですが、これを語った彼は、不和だった姉との仲の回復を契機に、より良い人生をおくれるようになったと話しています。それは偶然が起こしたことですが、えてして人生とはそういうものだと僕は強く感じます。
僕の体験談、というか日常的に思うことですが、音楽にはその時々で光り輝く瞬間というものがあります。僕のWALKMANを起動すると"every-time has its music"という言葉と共に起動するわけですが、本当にその時々で普段何気なく入ってる音楽は光り輝くのです。その好例はもちろんクリスマスですが。
そういう発見を探していくと、人生はどこまでも楽しくなっていきます。
電車の中で席を譲りあっている光景とか見ると嬉しくなりませんか?
雲が鳥のような形に見えるとすごいと思ったりしませんか?
些細なことで良いんです。
でもそれをそう感じられるのはあなたが生きているからなんです。
あなたが死んでいたらこの景色は見られないのです。
もし、あなたが失明したらその景色は存在しないのです。
見える事は素晴らしいことだと思いませんかね。
憐れむ気は一切なくとも、ギターを始めよう!と思った時に腕が二本あることってすごくすごい事じゃないですか?
海で泳ごう!と思った時に足が二本あるってことってすごく奇跡的なことじゃないですか?
目の前にいる彼女を見つめて、拒否もされずに視線を交わせるってとても素敵なことじゃないですか?
そう思えば、人生はもう少し楽しくなるし、むしろどこまでも楽しくなると思います。毎日の食事に頂きますを言って、美味しいと言って、芸術に触れて、誰かに触れて、布団に入って眠る。どこかしらに嬉しいがあるはずです。
高度にシステム化、資本主義化された社会で安寧を見つけられるのはいつもここなのではないでしょうか。生きることに感謝する。
そうまで言わなくても、現状を認識して、一つ一つの物質と命の成り立ちを考える。そうするといかに自分が無知か痛感するし、それと同時に『空の青さを知る」と思います。
そんなの感動するわけもないじゃない、という方がいれば、僕は答えねばなりません。
「じゃあそれを作ってみろよ」
できないですよね。そういうところにun-contorolableな物を感じ取れることを見出します。
そこから安定と妥協、そして調和の仕方を探っていかねばならないと僕は考えます。
できないものは仕方ないじゃん、というのは怠慢です、諦めです、敗北です。
存在そのものに適材適所という概念があるのです。
僕は震災の時、電気がなくなったら音楽が聞けないことを学びました。
省電力を呼び掛けられ、可能な限りの電気しか数日は使わない日々が続きました。夜も早く寝ます。音楽も聞きません、パソコンもつけませ。
いつか、の為に携帯の電池すら温存し、水も用意しました。
その不自由さ。
そしてそこからわかる、普段どれだけのものに支えられているか。
俺から大事なものを奪うなよ!という感情よりもいかに音楽が電気に支えられているかを痛感したわけです。
多分に質素なアメリカンインディアン達も、ごく当たり前のような原始的な小さなことに感謝して幸せを留めていたと思います。
神に感謝する、という宗教的で合理的な奇跡の享受の仕方は、物があふれていなくとも彼らの幸せとなっていたと思うわけだ。
原因を神に全て転嫁し、un-controlableな事象に対し、神という一つの答えを用意する。
同時に、奇跡の享受も神にゆだねる。
身を切るような思いをすればするだけ、そのありがたみを感じる。
その幸せは感じ取りやすい。
「空腹が最大の調味料」というのはその精神を顕していると感じます。
さて、その小さなこと。僕らでも生み出せます。例えば、コンビニのレジの人にありがとうと言う。外食してご馳走様を言う。お年寄りに席を譲る、落とし物を拾ってあげる。全部簡単にできることです。
この世界において、人間一人ひとりがPlayerであります。人生を幸せにするプレイヤーです。
その一方でPrayerでもあります。幸せを願うものです。
僕らは確かに仮面をつけ生きていますが、それと同時に幸せの生産者である権利もあるわけです。
行動の一つ一つが芸術で、パフォーマンスです。僕ら一人一人が景色なのです。
だったら良い景色を見たいでしょう。どういうのが良い景色なのか、頭に思い描いて、景色の一部になること。僕はそれが楽しいと思います。
このことは、自転車から学んだのです。自転車は、道端に停めれば景色になります。バイクも、車もです。なら、最愛の自転車を作って、町に飾っておいた方がさび付いて痛んだママチャリの何倍もカッコイイじゃないですか。
話がずれました、a small good thingに話を戻します。
それでも、人の世界には不条理というものが存在します。事故で亡くなったり、仲間外れにされたり、誰かに足を踏まれたり、宗教の為に闘ったり、国のために闘ったりするわけです。
「何が正しくて何が間違っているか、ずいぶん迷っていたね。正解はない。皆正しいんだ。皆が世界を良くしようと闘った、そして世界は良くなった。あれ(闘っていた仮想世界)があったから君たちは出会い、戦った。意味の無いものはない。どんな邪悪な物にも、悲惨な物にも必ず人類をよりよく導くための意味がある。それを見失わないことだ。」
これは僕が大好きなアニメ「C」の言葉だけれど、世の中に普遍的な正義なんてものは無い。
各個人のエゴそれぞれが正義であって、それの為に人は邁進する。人を邁進させるのはエゴであり正義でなくてはならないし、それが最も活力を与える。自分の正義の為なら人は動く。
だから、もし、世の中に真に邪悪な物があるとすれば、他人を憑代にして正義を語る偽物がそれだ。そういうのが偽善的なボランティアを産むし、それがまた悲劇を生む。ありがとうと言われるために行うボランティア活動はだいたいそんなもんだと思う。自分の信じる正義が遂行されていれば、報われる必要なんかないからだ。
もう一つ、邪悪なものがあって他人の努力を茶化すことがそれ。例えば、正義の味方が必殺技を言う。そんなの言わなくていいじゃんって茶々が入る。そうすると、萎えるよね。頑張っている人間に対して失礼だよね。こういのが2chを初めとするネットでそこそこ溢れている。匿名にかこつけて、非難を浴びせる。これは邪悪そのものだと思う。
その他にも実際邪悪なものというのはあるのだけれど、目に見える邪悪な物すべてが真に邪悪なのではないということが大事だと思うのです。
邪悪な事というのは、ある意味でではあるけれど村上春樹の短編「ハナレイ・ベイ」で見たように、何の悪意もなく身にかかることがあるのです。
災害もそう。誰も人を殺したくて事故を起こすのでないし、誰も病気になりたくてなるわけじゃない。
意味もなく理不尽や不条理は顔を出して、私たちをどん底に突き落とす。
a small good thingの話におけるパン屋もそうだった。意図した悪意を向けたわけじゃない。
"you Evil Bastard!"だなんて罵声を浴びていたが、Scottyの死など知る由もないパン屋にはそれが仕事だった。
夫婦にとっては、嫌がらせで悪意のあることに見えたことかもしれないが、彼が悪意を以てやったことではないのだ。医者にとっても救おうと努力することは仕事だった。そして、救えなかった。ただ結果として、どちらも夫婦を傷つける結果にしかならなかった。
当然、カオナシを引き入れた千尋も千としての仕事だった。そして、カオナシの誤解が損害や自身の苦しみを産んでしまったに過ぎない。皆が皆、自分の仕事を全うして、それで犠牲者が生まれてしまっただけなのだ。そう、仕事でしかなかった。
そして、それらの仕事は誰かが担わなければいけない仕事だったはずだ。feedして、cureして、serveする。そういう仕事だった。彼らは生きるという目的の為に、必要とされていることを維持するために、仕事を経てお金を受けとり、目的を達成した。
そのようにして得たお金こそ、健全なお金のあり方だと僕は思うのです。
村上春樹の「カエル君東京を救う」に出てきた、片桐やカエル君の汚れ仕事のようなものもその一つであったはず。誰かの不始末と、誰かが始末できなかった物のツケを払う片桐とカエル君。または下水インフラやゴミ収集、果ては原発廃炉作業者もそういう種類だと思う。
彼らの仕事というのは誰かが生んでしまった物を清算する仕事で、人がいなければ成り立たない仕事だ。彼らの働きの向こうに利用者がいる。市民の利用と、彼らの清算。また利用と、清算。そのような循環で繰り返される仕事は、人間が人間で自己完結するための仕事なのである。「人の、人による、人のための仕事」こそが健全な仕事あり方のではないかと思うのだ。
けれども、今の現実社会で牛耳っているのは何か。例えば、リーマンショック以降、市民に叩かれた銀行や資産家。彼らのしていることはEarnすること。それって自動詞で終わってしまう世界じゃないか。彼らが相手にしているのは個人でもなんでもなく、集合知のようなコンピュータゲームのようなものだ。
独裁国家のトップなど、その仕事にどんな動詞を当てはめればいいかすら分からない。そういう人たちが必要以上の力を持っている世界が今の現実なんだと思う。
金とは物と行動の共通語であり、お金というのは何かの手段であって目的ではないと以前も言ったと思う。けれど現実、仕事におけるトップカーストの目的が本能的な闘争心であったり、単なる傲慢だったりするわけだから、世の中世知辛いと思うわけである。そういう奴らの自己満足につき合わされた市民たちは不満を覚えるんではないか。
そうして生み出された結果、目的化された金は死んでいる、そう思わざるを得ない。そういう仕事は同じようにberuf(天職)概念のない、ウェーバーのいう資本主義のゾンビのようなものなのではないだろうか。
そこで、強者に求められるのがNoblesse Obligeの概念、持てる者の義務だと思います。僕らは日常で自分を観察して、自分が何を持っているのか理解することが求められると思うのです。いや、持ってなくていいから強者であるとはどういうことかを体感しなければならないのです。これは、資本主義に対するアンチテーゼというよりかは、資本主義システムと排除される個人の妥協点です。適材適所の認識と、人とのかかわりの下での自分のポジション。僕らは部活や高校、受験を通じて学んだはずです。敵わない才能があって、夢を追い続けることができないということを。
それと同時に非Nobleseな人々が、貧すれば屈することも忘れてはならないと思うのです。努力が実を結ばない社会というのは不健全である。努力したひとに集って、義務を怠って、生きる権利を主張するのは、努力した者に対して不公平だろう。生活保護の不正受給などはその類で、そりゃ、強者もいやけがさしますわ。
そうして各自が傲慢に振る舞い、すれ違いが増えて、対話のが消える。そんな世界で各自が更に好き勝手にやりだしたことで、軋轢は広がり続けて、ゆがみ続けていく。現世には目に見えない怨恨のような隔たりが同じようにそこかしこに存在する。すれ違いだらけの世界は、対話と想像力の不足が産むのだと思うわけです。
さて、small good thingsを探していくほかに、この世界でしんどくならない為には妥協をしなければなりません。
妥協とは、相手を深く知り、そこから中立的な結果を産もうとする努力をすることだと思う。最上級の幸福を達成できるわけでもないけれど、かといって何か失うわけではない。現状世界の幸せの総和が減るわけではない。得られなかった物を嘆く前に、得た物を喜べばいいのに。折り合いのつかない世界かもしれないけれど、なるようにしかならないし、得た物を大切にするべきだ。僕は少なくともそう生きてきた。
例えば、僕は高3の時、家がそんなに裕福じゃないものですから、塾にも行かずに国立一本で受験しました。で、堕ちる。一浪中は私立も受けられるようにバイトして、入学金とか入試費用とかほぼ全部稼ぎました。それで、私立数校と前年と同じ国立を受けて、結局国立と、受けた私立の上位校に落ちました。で、今の学校に入るわけですが、学費を工面するにはサークルなど一切入らないと腹をくくりました。だって授業成績落とせば利子付奨学金になってしまうわけですから。
そうやって、個人的には苦労して入って支払いと共に続いていく大学では寄生虫みたいな学生がウヨウヨいます。そいつらが、授業も騒ぎ立てるなどして、僕の理想の大学像を崩しました。
そりゃムカつきます。あんたがた誰のおかげでキャンパスライフを満喫できてるんだ、って。その中で真面目に授業を聴こうと思っている人間の権利を奪うのですから。そういう理想の裏切りにあったようなイライラが表層に出ているらしく、まぁ、友達はさっぱりできませんでしたね(笑
だが、今はどうでもいい。彼らには彼らなりの普通を過ごしてきたわけだ。それを咎めたって何の得もない。
「悲しみの数を言い尽くすより、同じ唇でそっと歌おう」(「いつも何度でもより」)
「どっちの方が不幸かなんてことで比べられても全然嬉しくないよ」(フルーツバスケットより)
平等であるべきだと思うものには、人は嫉妬を覚え、それぞれでいいと思うものには、むしろ羨望を覚えるものだから。
僕は漫画や歌からそう学んだ。小さなことだけれど、そう学ぶ機会があった。音楽がいる、誰かの描いた物語がある。そこから幸せを汲み取る。それでいいじゃないか。彼らには分からない、僕だけの世界を僕は持っている。僕の幸せを彼らに定義づけさせない。僕の幸せは僕のものだ。そう思えばぐっと気が楽になった。
就活において、自己実現の前に「何があなたの幸福なのか」を追求し続けるべきなのではないかと思うのです。良い企業に入って、いい給料もらって、良いもの食べる。ぶっちゃけ、刹那的な幸せはあるだろうけど、本当に幸せなのかはまた別なのでは?僕はぶっちゃけ自分の作ったシチューは美味いし、それを家族と食べて「美味い」と言いながら食べて温まってそれで幸せになれたりします(笑。それでもいいんじゃないかと思うのです。
だから、というか、そんな自分を肯定するために、僕は延々と愛を叫ぶことにした。僕は音楽や自転車への愛を叫ばなければ、ずっと音楽を聴いて、ずっと自転車に乗っているだけのただの変人で終わってしまう。そうじゃなくて、ただの恋い焦がれる人でしかないことを叫ばなくては。僕は誰よりも音楽を愛することを誇りに思いたくなった。何かを愛している自分が好きになっていく。
資本主義の世界じゃ、資源が何もないと作れない。でも、資源は有限だ。じゃ、どうしよう。
あぁ、心があるじゃないか。想像力があるじゃないか。心と想像力は無尽蔵の資源だ。
だからこそ、芸術に値がつけられているのじゃないか。
だから、エコロジー(地球を思うこと)は、人の力を信じることなんだと思う。
無限に膨らみ続ける世界で、信用と愛が膨張して暴走していく世界で、自分の足と意志で帰る場所を探さないといけないと思う。それがどんなところにあるかは、本気にならなければわからない。見えないものを見ようとしなければ、見えるものも見えなくなる。
ここまで書いていて、アニメ「とらドラ!」の登場人物、櫛枝みのりを思い出す。人生の中で、刻まれている物語はあるのだなと切に感じながら、今もまた幸せを噛みしめている。
それでいいか。良しとしよう。
悩んで、死にたい思いまでして生きた先は、きっと生きているだけで幸せを感じられる世界になっている。そう思おう。
以下、廻るピングドラムより
「ゆり、やっとわかったよ」
「どうして僕たちがこの世界に残されたのかが」
「教えて」
「君と僕はあらかじめ失われた子どもだった」
「でも、世界中のほとんどの子どもたちは僕らと一緒だよ」
「だから、たった一度でもいい」
「誰かの愛してるって言葉が必要だった」
「たとえ運命が全てを奪ったとしても」
「愛された子どもはきっと幸せを見つけられる」
「私たちはそれをするために、世界に残されたのね」
「愛してるよ」
「愛してるわ」
そういう人が見つかればいいな、と思います。別に女性じゃなくても。
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