2014年3月29日土曜日
キキイッパツその2
こんなことがあったわけで、今に至る。
私は茫然自失とした。目の前の現実に、対応できなかった。いるはずの無い人がいて、しかも、私のガチッぷりに間違いなくドン引きしてる。足の力はみるみる抜けていく。ヘッドホンから流れる"Sometimes"も、何の疾走感もない。本編ではなく、メイキングの転倒だらけの光景が脳内再生される。呼吸と驚愕の為に開いた口から涎が出そうになり、目を彼から離すことが出来ない。どうみても唖然とした彼の顔が、私のすり減った意識の中に流れ込んでくる。
初デートの時も、口では「余裕だ」なんて言ってたけど、死にそうな顔してたのを私は忘れない。ちょっと速すぎたかな、と反省した。今度はもう会ってくれないんじゃないかなって思ったけど、会ってくれた。もうガチッぷりは見せない。あの日はクロモリの練習用で行ったからまだ良かったけど、他だったら・・・。借り物だけどフラグシップが部屋にあるとかも絶対見せられない。だから今日も、こっちの部屋はカギかけようって決めたのに。
『ていうかなんでいるのよ!まだ8時よ!九時に来てって言ったじゃん!しかも勝手に家の中に入るとか信じられない!』
息も絶え絶えの私は、ラストスプリントの如く啖呵を切った、となればよかったのだけれど、それどころじゃなかった。というか、私はそんな風に言えない。追い込みで最早ゴール後の状態。そんな元気はないし、キャラじゃない。とりあえず、バイクから降りる。この間、何も言わない。傷つけないようにスタンドにかけて、壁を背もたれに、床に座り込む。
とりあえず、ダウンとかそういう問題じゃない。今、なんとかせねば。この状況を打破するのに最も有効な言葉を考える。しかし、脳の血管全てが引き締まるような気がして、考えるどころじゃない。それでも考える。そして、気まずい沈黙を破ったのは私の言葉だった。
「休憩させて」
何とか絞り出した言葉だった。
無言のまま、10分ぐらい過ぎただろうか。私も彼も、何も言い出せない。未だに顔が熱い。いつもなら、もう少し熱気が引いてると思うのだけれど、熱い。言うまでもなく、恥ずかしいからだと思う。女の子が汗だくというのも恥ずかしいが、鬼の形相でもがいているというのが恥ずかしい。というか、いきなりこの姿はインパクトがデカすぎる。おしまいだ。おしまいだ。絶対フラれる。まだ思考は疲れが優先されているし、そもそもなんでこんな時間に彼が、しかも勝手に部屋に入っているのかが分からないので、そこまで真剣に悩んだわけじゃないけれども、ちょっと悲しくなった。熱い。汗酷い。もういやだ。汗フェチだったりしないのかな。わずかな希望を頭に描いた。
彼の方を見ると正座をしている。なぜ正座。よくわからないけれど、何かを反省しているようにみえる。それともただのクセか。しかし、その目はどう考えても機材に向いている。明らかに完成車じゃない私のヴェロちゃんを眺めている。そして、私と目があった。彼は一瞬目を反らす。けれど、もう一回ヴェロちゃんの方に向いてから戻ってきた。そして、少し前のめりになりながら、内緒話でもする風に言うのだった。
「貧脚でごめんね」
とても言いづらそうにそう言い放った。前に付き合っていた男の子も(もっと棘のあるような言い方だったけど)そんなようなことを言って、その後、雰囲気が悪くなって別れたのだった。その時は箱根デートだった。汗と苦悶の箱根デート。文字通り甘酸っぱいデートだった。(主に汗)。元彼は自転車部だったらしく、その箱根で私が彼を千切って以来、関係がややギスギスし始めた。精神的に疎遠になり、会う回数もまばらになった。
その後、ある公園でたまたま会った時には「あの時俺は自分の弱さに負けたのだ」と言い出した。「己の未熟さ故で、八つ当たりしてしまったんだよ。器の小さい人間だった」とも言っていた。そうして、コンビニで買ってきてくれたカップラーメンを共に食べ、和解して、別れた。今では極稀に練習に付き合わされる程度に会う。
関係に陰りが出た後も私は彼を好きだったけれど、やっぱり彼の負けず嫌いは並々ならぬもので、デートの度に目を血走らせて、修羅の道にでも進みそうだった。毎回練習に行こうと言ってきた。だから、割り勘したカップラーメンを共に啜ったその時、別れることにした。正直、普通のデートもしたかったというのが一番の理由だったけれど。たまには普通の女の子らしくいたかった。ライバルよりも彼女でいたかった。
だから、私は今、今の彼の言葉を聞いて、ネガティブな記憶がフラッシュバックした。とりあえず太ももをタオルで隠しながら、私は彼に尋ねてみた
「ねぇ・・・引いた?」
彼はちょっと困ったように頭を掻きながら答える。
「うん、まぁ正直にいえばね。」
ズキッというオノマトペが頭で流れる。
「でも、僕もよくなかったよ。人の部屋に勝手に入ったんだし。」
イラッという擬音語が頭によぎる。
「そうだよ、なんでかってに入ってきたの!ていうかどこから入ったの!?」
先制アタック。
「鍵、開いてたから…。」
あっ、と思わず声が漏れた。早々に足が切れたような気分。
「あとそれと、だから心配で…。」
えっ、と不思議に思った。プロトンが見えてきた。
「3回だけど、インターホン押しても出ないし…。」
空耳じゃなかったようだ。彼の言葉に飲み込まれそうになる。
「呻き声みたいなものも聞こえたし…。」
恥ずかしい。あぁ、もう吸収された。
「あと、寝顔も見たかった。」
これは嘘くさい。けれど、それに近い何かがあるのだと思う。
「マンションで女の子独り暮らし。オートロックなし、カギもかかってない。しかも一階なんだよ…?付き合い始めて間もないとはいえ、むしろ・・・だからこそ、すごく心配になって…」
どんどん小さくなっていく彼を見て、まずかったな、とほんの少しだけ思った。そんなにヤワじゃないけれど。私も私で心配かけたのだ。それでもオーバーな心配ぷりだが、付き合い始めて3か月などテンションのまだ高い時期だ。ちょっと敏感なのかもしれない。
とにかく、カギの開けっ放しは迂闊だった。朝、7時に起きて牛乳が無いことに気づいて買いに行ったときに違いない。家から5分もないところにあるけれど、朝練の時間を短くできないと思い、急いでミニスーパーへ行き、急いで練習の支度したんだった。そして何より、いつもより起きるのが30分遅いのが諸悪の根源だ。昨日深夜アニメなど見るから寝坊したのだ…。今日はデート前にある程度疲れておいて、ちょっと甘えるモードでとか考えていたのに…。と、ほんの少し納得いかないところもあるけれど、プチ反省会を心の中で開催。心配してくれたというのは悪い気がしないし、何よりそういうところは実直な彼だ。時折みせる、思春期の好奇心のようなスケベ心以外は良い人なのだ。カーゴバイクに子供を乗せて買い物に行きたい、などと語る彼にはパートナーとしての魅力があった。だから私は彼を選んだ。
「怒ってる…?」
裏で黙々と反省会をしていた空気に耐えられなくなってか、それとも私が怒っているように見えたのか。彼はそんな風におずおずと聞いてくるのだった。
「怒ってないよ。」
ちょっとそっけない言い方になってしまった、が本心だった。とりあえずお風呂に入りたい。私は隣の洋間で待ってるように促した。
汗だくの上下インナーウェアを脱ぎ、浴室に入る。蛇口をひねれば冷たい水が降り注ぐ。初夏の今、しかも発熱した体には心地よい冷たさだ。ベトベトした汗は私の身体を這い落ちて、代わりに温もりを持った水が私を包み込む。裸だけれど、何か新しい服に袖を通すような気分。運動後の醍醐味。湯船があれば最高なのだけれど、朝から水を張ってるほど私はお金持ちじゃない。だいたい自転車につぎ込む。あと、最低限のお洒落。だからシャワーだけ。
しかし、冷静に考えてみれば、恥ずかしい状況だ。こんな私でも、普段は清楚系で通しているうら若き乙女である。しかし、そんな乙女がTTマシンに乗って汗を滴らせ、鬼気迫る顔で叫んでいた。そして、その現場を付き合ってそんなに間もない彼に見られた。死にたいくらい恥ずかしい。多分、叫んでたと思う。いや、絶対。ウォォォとかドス黒い声を出してたんじゃないか、考えただけで恥ずかしくなる。
けれど、それよりももっと、私に妙な緊張感を与えるのは今の状況だ。私の家に二人きりでいて、なおかつ私は今シャワーを浴びていて、彼は部屋で待っているというこの状況。そんな予定でもないのに、なんだかそんな気分にでもなりそうだ。多分、彼の事だから少しは緊張していると思う。むしろかなり。あの中学生じみた初心さを持った彼だ、多分まだ正座している。その想像がむしろ私を緊張させる。彼もそうだと思うが、まだそんな気ではない。キスはしたけれど、本当にオヤスミのキス程度のものだった。でも、少なくともそれで私は満足した。彼も満足だと言ってくれた。体中の力が抜けるとまではいかないけれど、耳たぶが熱くなって、踵がむず痒くなる様な、そんな彼との最初のキスだった。東京ポタリングの後だった。
とりあえず、今回のことは彼は私を心配してくれての行動だったわけだ。それを茶化しはするかもしれないけれど、責めるほど私は失礼でもない。それに、「正直言えば」という言い方。ドン引きよりも、心配が勝ってくれたのだろうと思う。そう思いたい。そのことはまたあとで聞くとしよう。今日はまだまだ時間はある。
そうしたらなんて聞き出そうか、と思った。そして、扉の向こうの向こうの向こう側にその彼がいると思うと、やはり心臓の鼓動が速くなるような気がする。緊張で定まらない視点が宙を泳ぐ。白い天井、乳白色の壁、シャワーヘッド。そして、自身の裸体が映る鏡に気が付き、固唾を呑んだ。意味もなく胸のあたりを両手で触ってみる。そこそこある方だと思う。僅かに頷く。今度は無駄に首をひねり、お尻の形をなぞってみる。良くも悪くも大きい。やや首をかしげる。そのまま無意識に、太ももに両手をあてる。間違いなく太い。目頭を水滴が伝う。
私は映画のワンシーンのごとく、風呂場の壁に手をついてみる。心を落ち着かせてみる。上からシャワーが降り注ぎ、ずぶ濡れになりながら沈思黙考。よくありがちなサービスシーンを演じてみる。それで、気恥ずかしさが紛れたかというと、勿論答えはNoだ。打開策は見つからない。我ながら馬鹿馬鹿しさに呆れ、シャワーを止める。わざとらしくガラッと音を立て、タオルをとる。タオルを叩くように肌にあて、水気をとっていく。手を伸ばしてあると思われた下着を取る。あると思われた、下着である。
「え…。」
ということはつまり、そこに下着は無かった。あまりに急いで、用意し損ねた。
本日二度目の失態。もう、勘弁して。
2014年3月28日金曜日
キキイッパツ
午前8時。通勤や通学で街はまだ少しざわついている。ママチャリに乗った高校生が横をすり抜けていく。1人、2人。抜き去っていくたび風が起こる。やや間をおいて1人以上。強めの風が吹いた。自転車に一人以上?
「二人乗りだ!」
僕は心の内で叫んだ。二人乗りの速度は遅いにも関わらず、空気の動きは並みの速度のそれと同等かそれ以上に感じる。空気抵抗というものなのだろう。ブワッという風が吹き、二人乗りの自転車は僕の横を過ぎて行く。あまり真面目そうじゃない男の子が若干の蟹股で必死にペダルを回している。後ろでは女の子がスカートをはためかせながら横向きに座っている。右手と左手で緩く男の子にしがみつき、その表情は無表情より少しは表情のある涼しげな顔だった。それを見て、心の中で悪態をつく。捕まってしまえ、という子供じみた嫉妬心と共に、お尻が痛くないのだろうかという疑問が湧いてくる。あと、ちょっと羨ましい気持ちもある。ちょっとだけれど。無論だ。否定はしない。
しかし、僕には今彼女がいる。そして今、その彼女の家に向かっている。今日はデートなのだ。だから僕は負け犬じゃない。負け惜しみでもなんでもないのだ。
先日、のんびりしようということで、彼女の家の近くの公園に行く予定を立てた。その時、「近いからうちに一度寄っていってよ」っとちょっと恥ずかしそうに言うものだから、僕はそこに向かっているのだ。行かないわけにはいかない。
尚、集合時間は9時。つまり、1時間早くついてしまった。初めて彼女の家に遊びに行くものだから、道に迷わないように、且つ時間に余裕を以て行動しようと6時半に家を出たのだ。そこから電車で45分、無事についた。つまり、というかなんというか、早くつきすぎたのだ。
ちなみに、「残念」ながら彼女は一人暮らしである。そんな彼女の部屋に行って、(おそらく)少しお茶を飲んでゆっくりして、ちょっとおしゃべりして。それでなんとなく、なんとなくだけれど、そういう雰囲気になってしまう可能性もなくはない。限りなく0に近くとも、ゼロじゃない。魔が刺す可能性だってある。付き合い始めて3か月、何せそういうことは今までにない。気づけば数時間過ぎて、そんな事をしても問題ないような時間にだってなるかもしれない。勿論、何もする気はない。それはないけれど、やっぱり独り暮らしの女の子の家に行くなど恥ずかしいじゃないか。つまるところ、僕は緊張していた。後々回想し白状すると、ほんの少しやましい気持ちもあった。恥ずかしい限りである。そういった邪な心が後の悲惨な結果を生むのだ。
そういった緊張のせいか、やや速足で歩いてると案外あっさりついてしまった。念のため、スマートフォンで住所と地図を確認する。間違いなく彼女のマンション、4階建て。小豆色のような煉瓦色のような少し古いマンションである。各階には3部屋ずつ、つまり12部屋。その割には面積があるようで、一部屋は広そうだ。エントランスのような場所はあるが、オートロックは無い。少し、心配である。管理人室のようなところに灯りが灯っており、人がいる様子はあるものの顔を出しているのでもない。益々心配である。しかも彼女は一階だ。益々益々心配である。僕はそのことを聞いたとき、なんで一階なんかに住むのか聞いてみた。防犯上でもよくないし、家賃の面でもよくはない。すると彼女は「便利なんだもん、1階じゃなきゃいやなの」と言っていた。そりゃ便利だけれど、やはり心配なのだ。
とりあえず、彼女の部屋の前についた。表札には「佐藤 健太」と書かれている。彼女の苗字プラス、男の名。しかし、僕はあわてない。なんでも、これは番犬がわりなのだと聞いている。「男がいるっぽい方がストーカーも寄らないでしょ?」と言うのが理由らしい。本当にやっていると思わず、ちょっとひいた。それでも、いざ表札にそう書いてあるのを見ると複雑な気持ちである。ちなみに僕の名前は健太じゃない。ワックスで髪をツンツンにした健太なる人物を空想し、まさかドアを開けたらいるんじゃないかと勘ぐってしまう。益々、益々、不安になってくる。彼女はちょっと男心を軽く見ている。せめて僕の名前にしてくれと、後で打診してみよう。いや、待て、そんなことしたら重い男だと思われるんじゃないか?
そんな問答を玄関の前で繰り返していると、人の視線を感じた。左を向くと、犬の散歩帰りの妙齢の婦人と目があった。訝しそうにこちらを見ている。凝視、という言葉が相応しい視線が刺さる。気まずい。これじゃまるで僕がストーカーみたいじゃないか。幸い、不審者のような格好はしていないが、居心地が悪くなってきた。婦人にひきつった笑みと会釈を与えると、夫人は真顔で首だけ下げるような会釈を返すと、婦人はエレベーターへ消えて行った。
踏ん切りの付いた僕はインターホンを押す。心臓の鼓動はいつもより速い。心拍数でいえば110くらいか。ドクン、ドクン、ドクン・・・。そんな鼓動を10回くらい感じた後で、反応が無いことに気づく。気づくというか、拍子抜けを食らったような感覚だ。思わず口から「ん?」という言葉が漏れ、不思議に思いながらももう一度押す。さっきより鼓動は落ち着いている。心拍数で言えば90ちょい?しかし、反応はない。そんなはずはないと思いながらも、もう一度押してみたが、やはり。まさか、健太がいそいそと隠れてるんじゃ。まさか、変な男が入り込んでるんじゃ。妙な不安が襲う。もう一度呼び鈴を鳴らしても効果はないだろうと、ノックをするためにコブシを握る。
その刹那、やや左後ろから音がした。さっきの婦人かと一瞬警戒して目をやると、杖を突いたおじいさんがゆっくりとエレベーターから出てきた。餅つきと同じようなスピードで一歩ずつ歩いている。しかし、ゆっくり歩きながら老人も僕に目線を送っている気がした。またも気まずい。一度コブシを解いた。ノックというのはちょっと荒々しいと感じがあり、僕はあまり好ましく思ってない。だから、憚られたのだ(ただし、トイレは除く)。そして、老人が過ぎ去るのを待った。しかし、なにぶん、老人の動きが遅いものだからじれったい。いーち、にーい、さーん・・・と数えるように歩いている。しかも僕の方に。僕の右手にも出口があり、そちらへ向かっているようだ。しかし、視線はこちらに注がれている。何もせず立っているだけの怪しい男が、若い女性の部屋の前にいる。そのことに気付くと、視線に耐えられない。呼び鈴もノックもという、万策も無いけれど二策が尽きたところで、一か八か、この家の関係者を装ってドアノブを回してみた。スマートに、平然と、あたかも「ただいま」というように。
果たして、ドアノブはなんと廻った。カチャっと音を立てて回ったのだ。カギはかかっていないようだ。不用心にもほどがある。呆れると同時に、心配が募る。老人のことなんか頭からすっ飛んだ。健太がいるから安心しているのか・・・。それとも、今まさに不審者に襲われているのか・・・。不穏な状況に僕はあらぬ想像を膨らませながら、手首をひねったまま小休止。ふぅ、と息を吐く。意を決して、僕は開けることにした。ゆっくりと、一歩後ろに下がり、ドアを引く。1人がなんとか入れるだけ扉を開き、隙間から肩を入れて中に入る。気付かれないように、音を立てないよう、ゆっくりと。僕は細心の注意を払いながら、家に侵入した。玄関の上に立ち足元を見る。靴は二足。女物だ。とりあえず、健太の疑いは消えた。女友達でも来ているのか。それとも土足で彼女の部屋にあがり、彼女に危害を加えているのか。暴れるような物音や悲鳴は聞こえないが、物音がする。ゴウンゴウンという音だ。何かが摩擦しているようにも聞こえる。やや甲高い駆動音のようなものまで。ウイーーーーーンという音。電動歯ブラシでもない。変なものでもない。工場とかで聞こえそうな音だ。聞き覚えはある、なんだか思い出せない。不穏な空気が漂う。
微かになったガチャンという音に肩を窄める。ドアレバーから手を離し、ゆっくりと回れ右。床に並んでいるやや高めのヒールを倒さないよう、のっそりと。正面を向くと、室内は至って普通の2DKだった。玄関入ってすぐにキッチン。綺麗である。コップが一つ、シンクの上に載っている。ゴキブリなどが湧くような家に住んでいなくてちょっと安心する。右側には浴室。シャワーの音はしない、いる様子もない。そして、正面には引き戸が二枚。左側の戸は洋間のようで、開け放たれているがそこにいる様子はない。玄関からはテレビと白い箪笥だけしか見えない。対して右側の戸。中は見えないが握りこぶし一つ分だけ開いている。どうやら和室のようだ。駆動音はそちらからするようだ。彼女の「ハァ、ハァ」という荒い息も聞こえてきた。とても苦しそうだ。
ちょっとドキドキしてきた。勿論、いい意味ではない。ヨクナイ事態への緊張だ。健太が用意周到に靴を隠しているのかもしれない、という健太の疑惑が再浮上した。または、変質者が彼女を襲っているのか。どちらにせよ、僕にはこの不可解な状況でその二つしか浮かばなかった。そして、間違いないのは彼女が苦しんでるということ。何せ、インターホンで反応が無いのだ。しかも、僕が来ると分かっている日に。反応できないような目にあわされているか、居留守をつかわれているかである。心配せずにいられるだろうか。機械のような音は、聞いたことあるような気もするが想像はできない。むしろ、それが不気味さを助長させている。家ではまずならないような音だからだ。募りに募った不安と恐怖、ちょっとした背徳感を覚えながら、僕は3歩、抜き足差し足で進んだ。
ここまで冷静にいられるのは、彼女が心配だからである。部屋の中で事に及んでいるのがどちらにせよ、逃げる隙を作ってなるものか。苦しむ声が聞こえているならば、事態を未然には防げなかったということだ。ならば、確実に健太にしろ変質者にしろ、捕まえる。腕に自信は無いけれど、不意をつければ有利な状況になるだろう。そのためにも冷静でいなければならない。何度も「落ち着け」と自身に言い聞かせた。絶対に助ける。または問い詰める。
隙間から見えないように戸の後ろへしゃがみこむ。アクション映画の刑事さながら身を乗り出し、僅かに開いた戸から部屋を覗き込んだ。
40mm近いディープリムを装備したロードバイクの上でもがき、苦しむ彼女がそこにいた。タイムトライアルマシン、しかもサーヴェロ。定価数十万のフレームである。顔を伏せながらクランクを高回転させている。轟音を上げるローラー台。耳にはヘッドホン。僕がその姿を視認した瞬間、彼女も顔をあげた。わずかな隙間から僕の目を見つけた。目があった。見つけてしまった。苦しみの表情が一瞬にして消える。半開きになった口。足は止まり、ラチェットの音が鳴り始める。リムの表面にZippの文字が浮かびあがる。
その姿を見て、僕の記憶の古傷がうずきだした。初デートの日。自転車で行こうという僕の誘いに彼女は喜んだ。当日、集合してみると僕はジーンズとポロシャツ。彼女はレーパン、ジャージ。
「そんなに速くないよ!」
とバタバタと手を振って照れ隠しをした彼女。そして、
「ゆっくり行こうね」
とハートマークさえつきそうなトーンで、伏し目がちに告げて僕の男心を刺激した彼女は30分後、
平然と35km/hで巡航した。
ボトルも足も切れて、彼女にも千切られた、あの苦い思い出がよみがえった。
「二人乗りだ!」
僕は心の内で叫んだ。二人乗りの速度は遅いにも関わらず、空気の動きは並みの速度のそれと同等かそれ以上に感じる。空気抵抗というものなのだろう。ブワッという風が吹き、二人乗りの自転車は僕の横を過ぎて行く。あまり真面目そうじゃない男の子が若干の蟹股で必死にペダルを回している。後ろでは女の子がスカートをはためかせながら横向きに座っている。右手と左手で緩く男の子にしがみつき、その表情は無表情より少しは表情のある涼しげな顔だった。それを見て、心の中で悪態をつく。捕まってしまえ、という子供じみた嫉妬心と共に、お尻が痛くないのだろうかという疑問が湧いてくる。あと、ちょっと羨ましい気持ちもある。ちょっとだけれど。無論だ。否定はしない。
しかし、僕には今彼女がいる。そして今、その彼女の家に向かっている。今日はデートなのだ。だから僕は負け犬じゃない。負け惜しみでもなんでもないのだ。
先日、のんびりしようということで、彼女の家の近くの公園に行く予定を立てた。その時、「近いからうちに一度寄っていってよ」っとちょっと恥ずかしそうに言うものだから、僕はそこに向かっているのだ。行かないわけにはいかない。
尚、集合時間は9時。つまり、1時間早くついてしまった。初めて彼女の家に遊びに行くものだから、道に迷わないように、且つ時間に余裕を以て行動しようと6時半に家を出たのだ。そこから電車で45分、無事についた。つまり、というかなんというか、早くつきすぎたのだ。
ちなみに、「残念」ながら彼女は一人暮らしである。そんな彼女の部屋に行って、(おそらく)少しお茶を飲んでゆっくりして、ちょっとおしゃべりして。それでなんとなく、なんとなくだけれど、そういう雰囲気になってしまう可能性もなくはない。限りなく0に近くとも、ゼロじゃない。魔が刺す可能性だってある。付き合い始めて3か月、何せそういうことは今までにない。気づけば数時間過ぎて、そんな事をしても問題ないような時間にだってなるかもしれない。勿論、何もする気はない。それはないけれど、やっぱり独り暮らしの女の子の家に行くなど恥ずかしいじゃないか。つまるところ、僕は緊張していた。後々回想し白状すると、ほんの少しやましい気持ちもあった。恥ずかしい限りである。そういった邪な心が後の悲惨な結果を生むのだ。
そういった緊張のせいか、やや速足で歩いてると案外あっさりついてしまった。念のため、スマートフォンで住所と地図を確認する。間違いなく彼女のマンション、4階建て。小豆色のような煉瓦色のような少し古いマンションである。各階には3部屋ずつ、つまり12部屋。その割には面積があるようで、一部屋は広そうだ。エントランスのような場所はあるが、オートロックは無い。少し、心配である。管理人室のようなところに灯りが灯っており、人がいる様子はあるものの顔を出しているのでもない。益々心配である。しかも彼女は一階だ。益々益々心配である。僕はそのことを聞いたとき、なんで一階なんかに住むのか聞いてみた。防犯上でもよくないし、家賃の面でもよくはない。すると彼女は「便利なんだもん、1階じゃなきゃいやなの」と言っていた。そりゃ便利だけれど、やはり心配なのだ。
とりあえず、彼女の部屋の前についた。表札には「佐藤 健太」と書かれている。彼女の苗字プラス、男の名。しかし、僕はあわてない。なんでも、これは番犬がわりなのだと聞いている。「男がいるっぽい方がストーカーも寄らないでしょ?」と言うのが理由らしい。本当にやっていると思わず、ちょっとひいた。それでも、いざ表札にそう書いてあるのを見ると複雑な気持ちである。ちなみに僕の名前は健太じゃない。ワックスで髪をツンツンにした健太なる人物を空想し、まさかドアを開けたらいるんじゃないかと勘ぐってしまう。益々、益々、不安になってくる。彼女はちょっと男心を軽く見ている。せめて僕の名前にしてくれと、後で打診してみよう。いや、待て、そんなことしたら重い男だと思われるんじゃないか?
そんな問答を玄関の前で繰り返していると、人の視線を感じた。左を向くと、犬の散歩帰りの妙齢の婦人と目があった。訝しそうにこちらを見ている。凝視、という言葉が相応しい視線が刺さる。気まずい。これじゃまるで僕がストーカーみたいじゃないか。幸い、不審者のような格好はしていないが、居心地が悪くなってきた。婦人にひきつった笑みと会釈を与えると、夫人は真顔で首だけ下げるような会釈を返すと、婦人はエレベーターへ消えて行った。
踏ん切りの付いた僕はインターホンを押す。心臓の鼓動はいつもより速い。心拍数でいえば110くらいか。ドクン、ドクン、ドクン・・・。そんな鼓動を10回くらい感じた後で、反応が無いことに気づく。気づくというか、拍子抜けを食らったような感覚だ。思わず口から「ん?」という言葉が漏れ、不思議に思いながらももう一度押す。さっきより鼓動は落ち着いている。心拍数で言えば90ちょい?しかし、反応はない。そんなはずはないと思いながらも、もう一度押してみたが、やはり。まさか、健太がいそいそと隠れてるんじゃ。まさか、変な男が入り込んでるんじゃ。妙な不安が襲う。もう一度呼び鈴を鳴らしても効果はないだろうと、ノックをするためにコブシを握る。
その刹那、やや左後ろから音がした。さっきの婦人かと一瞬警戒して目をやると、杖を突いたおじいさんがゆっくりとエレベーターから出てきた。餅つきと同じようなスピードで一歩ずつ歩いている。しかし、ゆっくり歩きながら老人も僕に目線を送っている気がした。またも気まずい。一度コブシを解いた。ノックというのはちょっと荒々しいと感じがあり、僕はあまり好ましく思ってない。だから、憚られたのだ(ただし、トイレは除く)。そして、老人が過ぎ去るのを待った。しかし、なにぶん、老人の動きが遅いものだからじれったい。いーち、にーい、さーん・・・と数えるように歩いている。しかも僕の方に。僕の右手にも出口があり、そちらへ向かっているようだ。しかし、視線はこちらに注がれている。何もせず立っているだけの怪しい男が、若い女性の部屋の前にいる。そのことに気付くと、視線に耐えられない。呼び鈴もノックもという、万策も無いけれど二策が尽きたところで、一か八か、この家の関係者を装ってドアノブを回してみた。スマートに、平然と、あたかも「ただいま」というように。
果たして、ドアノブはなんと廻った。カチャっと音を立てて回ったのだ。カギはかかっていないようだ。不用心にもほどがある。呆れると同時に、心配が募る。老人のことなんか頭からすっ飛んだ。健太がいるから安心しているのか・・・。それとも、今まさに不審者に襲われているのか・・・。不穏な状況に僕はあらぬ想像を膨らませながら、手首をひねったまま小休止。ふぅ、と息を吐く。意を決して、僕は開けることにした。ゆっくりと、一歩後ろに下がり、ドアを引く。1人がなんとか入れるだけ扉を開き、隙間から肩を入れて中に入る。気付かれないように、音を立てないよう、ゆっくりと。僕は細心の注意を払いながら、家に侵入した。玄関の上に立ち足元を見る。靴は二足。女物だ。とりあえず、健太の疑いは消えた。女友達でも来ているのか。それとも土足で彼女の部屋にあがり、彼女に危害を加えているのか。暴れるような物音や悲鳴は聞こえないが、物音がする。ゴウンゴウンという音だ。何かが摩擦しているようにも聞こえる。やや甲高い駆動音のようなものまで。ウイーーーーーンという音。電動歯ブラシでもない。変なものでもない。工場とかで聞こえそうな音だ。聞き覚えはある、なんだか思い出せない。不穏な空気が漂う。
微かになったガチャンという音に肩を窄める。ドアレバーから手を離し、ゆっくりと回れ右。床に並んでいるやや高めのヒールを倒さないよう、のっそりと。正面を向くと、室内は至って普通の2DKだった。玄関入ってすぐにキッチン。綺麗である。コップが一つ、シンクの上に載っている。ゴキブリなどが湧くような家に住んでいなくてちょっと安心する。右側には浴室。シャワーの音はしない、いる様子もない。そして、正面には引き戸が二枚。左側の戸は洋間のようで、開け放たれているがそこにいる様子はない。玄関からはテレビと白い箪笥だけしか見えない。対して右側の戸。中は見えないが握りこぶし一つ分だけ開いている。どうやら和室のようだ。駆動音はそちらからするようだ。彼女の「ハァ、ハァ」という荒い息も聞こえてきた。とても苦しそうだ。
ちょっとドキドキしてきた。勿論、いい意味ではない。ヨクナイ事態への緊張だ。健太が用意周到に靴を隠しているのかもしれない、という健太の疑惑が再浮上した。または、変質者が彼女を襲っているのか。どちらにせよ、僕にはこの不可解な状況でその二つしか浮かばなかった。そして、間違いないのは彼女が苦しんでるということ。何せ、インターホンで反応が無いのだ。しかも、僕が来ると分かっている日に。反応できないような目にあわされているか、居留守をつかわれているかである。心配せずにいられるだろうか。機械のような音は、聞いたことあるような気もするが想像はできない。むしろ、それが不気味さを助長させている。家ではまずならないような音だからだ。募りに募った不安と恐怖、ちょっとした背徳感を覚えながら、僕は3歩、抜き足差し足で進んだ。
ここまで冷静にいられるのは、彼女が心配だからである。部屋の中で事に及んでいるのがどちらにせよ、逃げる隙を作ってなるものか。苦しむ声が聞こえているならば、事態を未然には防げなかったということだ。ならば、確実に健太にしろ変質者にしろ、捕まえる。腕に自信は無いけれど、不意をつければ有利な状況になるだろう。そのためにも冷静でいなければならない。何度も「落ち着け」と自身に言い聞かせた。絶対に助ける。または問い詰める。
隙間から見えないように戸の後ろへしゃがみこむ。アクション映画の刑事さながら身を乗り出し、僅かに開いた戸から部屋を覗き込んだ。
40mm近いディープリムを装備したロードバイクの上でもがき、苦しむ彼女がそこにいた。タイムトライアルマシン、しかもサーヴェロ。定価数十万のフレームである。顔を伏せながらクランクを高回転させている。轟音を上げるローラー台。耳にはヘッドホン。僕がその姿を視認した瞬間、彼女も顔をあげた。わずかな隙間から僕の目を見つけた。目があった。見つけてしまった。苦しみの表情が一瞬にして消える。半開きになった口。足は止まり、ラチェットの音が鳴り始める。リムの表面にZippの文字が浮かびあがる。
その姿を見て、僕の記憶の古傷がうずきだした。初デートの日。自転車で行こうという僕の誘いに彼女は喜んだ。当日、集合してみると僕はジーンズとポロシャツ。彼女はレーパン、ジャージ。
「そんなに速くないよ!」
とバタバタと手を振って照れ隠しをした彼女。そして、
「ゆっくり行こうね」
とハートマークさえつきそうなトーンで、伏し目がちに告げて僕の男心を刺激した彼女は30分後、
平然と35km/hで巡航した。
ボトルも足も切れて、彼女にも千切られた、あの苦い思い出がよみがえった。
2014年3月2日日曜日
終物語(中)
特別とは何かを考えるお話。本当に特別は何なんでしょうというのが私の気分ですが。
今回は不幸の成り立ちから考えます。ですから、不幸な人と、不幸な人の気持ちを知りたい人は見て頂けると幸いです。自分は幸せで、不幸になんか触れたくもない、という方は見なくていいです。なお、なるだけ、作品を見たことない人にも分かるように書いたつもりですが、そりゃ経験が違いますがご容赦を。
さて、私はどこまで行っても、この物語シリーズは不幸との対峙だと思っています。不幸というよりは、遣る瀬無いこと、とでも言いますか。
「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」
ほぼ最後に出てくる一文に、ハッとした。
僕は正直、人の不幸を知らない。自分の持ってる不幸しか知らないのだ。勿論、想像することはできるけど、やはりそれは伝えてくれないと分からないものだし、そう頼ってきてくれる人も別段いたわけじゃないから、やはり知らないのだ。些細なことで不幸を感じる人もいるだろうし、全く表に出さない人もいるだろう。まぁ、それが普通なのかもしれない。
けれど、人を信用できなくなると、耳の中に理想論のような「普通」しか入ってこないから、やはり僕は不幸なのだと思わざるを得なくなってしまう。
「平等であるべきだと思うものについて、人は嫉妬を覚えるけれど、其々で良いと思えるものについては、人は羨望を覚える」という風に思っている。多くの場合、不幸は嫉妬から生まれるの。
この世界は、メディアや何から何まで、普通を描いていて、普通じゃないものは敬遠される世界だ。少なくとも、人格形成を決めるような小中(高)までは。大抵の場合は、自分の境遇と他人の境遇を比べて、優劣をつけて、自分が不幸だと知った時、誰かに嫉妬する。自分が不幸だという現実を突き付けれられて、なんで自分はそうじゃないんだって社会や他人に嫉妬するのが不幸の始まりなのだと思う。別に他人なんてどうでもいいと思えば、本当にどうでもよくなる。
ある作曲家が
「嫉妬と保身と自己嫌悪。この複雑に関係する三つの病を治さないことには、幸せはやってこない。」
と仰っててひどく納得したものだ。
で、この不幸の悪循環が何故起きるかというのを個人的な経験に基づいて、かつ、斧乃木ちゃんのセリフを拝借してしまうと、それに尽きてしまうのだ。集約されてしまう。。
「(言い訳のようにも聞こえるけれどね。)幸せにならないから勘弁してください、幸せになろうとなんかしないから、どうか許してください、どうか見逃してくださいと言っているようにも。僕たちはこんなに不幸なんだから責めるなよ可哀想だろって主張しているようにも。ねぇ、鬼いちゃん、ひょっとしてあなた、不幸や不遇に甘んじていることを『頑張ってる』と思っちゃってるんじゃないの。」
と斧乃木余接は語る。不幸の免罪符。簡単なイメージでもしかしたら、キリストがその身に罪を背負って…云々みたいなイメージを持ってしまうのかもしれない。僕が不幸だから幸せになれる。僕は不幸だから幸せになれるはずがない。僕は。僕は、僕は。世界中の不幸を自分が独占していて、他の皆は全て幸せで、全て敵で。敵である。僕が幸せになれない理由である。そのうち、僕のおかげで君たちは幸せでいられるんだとも思ってしまうかもしれない。そういう可能性だってある。
傲りが出てきた。自己否定を怠ると、不幸の根源に対処しようとして殺人衝動が出てきてしまう。どんなに人の形をしていても、それは不幸の「源泉」でしかないのだから。無差別殺人犯にとっても事情は大して変わらないと思う。僕以外は幸せだから、僕の幸せ成分を獲っているから、僕は幸せになれないんだ。そう思うのかもしれない。
そんな、殺人衝動に気づいた時、それがマズイと思ったら多分人を殺しはしないでしょう。けれど、そこですることは自己否定、自己卑下なのだ。僕「なんか」が彼らを殺していいはずない。僕「なんか」じゃ人を殺せない。僕「なんか」が幸せを求めようとしたこと自体が間違いなのだ。
そうして、堕ちるところまで堕ちて、帰ってこれなくなるとその理由づけに保身が始まる。それが不幸の免罪符。不幸に耐えてればいつかいい事ある。必死に不幸に耐えることだって・・・
何もならないのだ。何にもならない。斧乃木ちゃんは言う。
「そういうのを世間では『何もしていない』って言うんだよ。普段の怠けだ。不幸なくらいで許されると思うな。終わったくらいでリタイヤせずに、ハッピーエンドを目指すべきだ。」
「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」
卑怯。卑しく怯える。心が貧しく、怯えている。勇気が無く、物事に正面から取り組もうとしないこと。それを狡い、という人もいるかもしれないが、これは欠陥なのだ。そう、不幸から逸脱するためには勇気が必要だった。裏切られても耐えられる勇気、何かの為に何かを見捨てる勇気、変態の汚名を受ける勇気。勇気を以て前に進み、人生を、物語を進めなくてはならないのだ。待っていることは解決にはならない、後回しになるだけだ。前には進まない。待ちくたびれた時にはもう遅くて、帰る場所は風化して、他の誰かはそれぞれ前に進んでいる。置いてかれていく。待ち合わせなどしてもいない未来から、置いてかれて、老いて枯れる。
ここまでが僕の考える不幸の話。そしてここからが神原駿河という少女の話と、終物語の話。
ここまでで見飽きたら、一度戻りましょう。そして、おかえりと僕は言えたらと思います。
以下続きます。
さて、その一方で、神原駿河はどこまでも愚直だ。優しいなんて生易しい言葉では言い尽くせない。僕と神原が明らかに違うのは、枝分かれする根底には、彼女には勇気があるということだ。その勇気で真っ直ぐに向かってくる。自分が痛みを知ると分かってても、進まない人を見過ごさない。愛の反対が無関心という言葉に抗うかのように、同調するほどの重すぎる愛とでもいうのだろうか。戦場ヶ原さえも後ずさりしたほどの、重すぎる愛。卑怯とは程遠いその行動力、それが神原を神原足らしめている。人を傷つけない為に本当の努力をした人間である彼女は、独り善がりでない人の救い方を知っていた。それが勇気だった。勇者だった。選ばれしもの。ケムコとは関係ないけれど、それこそが才能なのだろう。
当然、神原も人を選ぶのだろう。鉄砲水のように変態の極致ともいえるような性癖を曝け出しながら話しかけてくるのは阿良々木君に対してだけらしいし。花物語で見る彼女が全く別人だったように、変態で形容される神原駿河というのはアララギ君と----おそらく戦場ヶ原に対してだけなのだろう。
そうできる理由を考える。投げっぱなしの信用。僕は、それが神原とアララギ君を繋げていると思う。二人を繋ぐのは愛ではない、なんとなくだが何となく感じることだ。恋愛感情に発展しない関係。男と女の友情。そういうものが見て取れる。多分に神原が男っぽい、というより女子女子しくないということもあるのだろうが、それよりも二人は殺し合ったほどの仲だ。そして、戦場ヶ原に選ばれる才能というものを持った阿良々木君は、神原にとっては否が応でも認めなければ相手なのであって、強者である義務、Noblesse Obligeを知っている彼女はどうしようもなく、彼に従わざるを得ないのではないかと思うのだ。多くのものを勝ち取ってきた神原でも勝てないのだ。ナンバーワンがオンリーワンを意味するように、報酬は勝者にしか与えられない。戦場ヶ原の特別は、少なくとも現段階では阿良々木君ただ一人なのだ。
代替のきかない存在。特別であること。僕は僕以外の何物にもなれず、かといって誰かが僕に成り代われる物でもない。特別であるための物語。永くなったが、やはりこの物語はここに執着し、終着する。
初代怪異殺しと忍の物語であるが、今の神原と戦場ヶ原の焼写しの物語であると言っても良いのかもしれない。「二番手の気持ち。」それを知っている神原であるからこそ、忍と対峙した。今でこそ神原は救われているのかもしれないが、救われなかったときの気持ちを考えると、他人事とは思えないのじゃないだろうか。見るに堪えかねた、という風に。
そして、初代怪異殺しと阿良々木君が向き合った時の言葉だ。
「お前は特別で、選ばれた人間なのかもしれない。僕は特別じゃないし、選ばれてないかもしれない。お前の代わりは誰にもできなくても、僕の代わりは誰にもできるのかもしれない。だけどな。」
「お前は僕にはなれないよ。僕の代わりはいくらでもいるけれど、僕は僕しかいないから。」
「お前は僕じゃないように、僕はお前じゃない。そういうことだろう?」
忍の現段階の特別である阿良々木君は、二番手の初代怪異殺しにそういった。
その前に戦場ヶ原に電話をかけて、こういわれた
「絶対的な絆なんて結構怖いしね-----だから乗り換えられないよう。努力しなさいという話でしょう。特別な人間にはなれなくとも、誰かの特別にはなれるでしょ」
「私は神原や阿良々木くんにとって特別な人間であろうと絶え間なく努力している------安心しなさい、阿良々木くん。あなたは十分、特別な人間よ。私にとっても、神原にとっても------忍ちゃんにとっても。私たちはあなたを選んでいる」
阿良々木君が、初代怪異殺しに対して毅然と「僕は僕しかいないから」と言えたのは、その言葉があってこそだろう。少なくとも、今は、特別であることを実感できる。それが彼を前へと進める。そういってくれる彼女らを信じて、彼は前を向いていられる。
特別なんてものは存在しない。主観の集合である一般的な特別には、誰一人もなれず、誰もがなれてしまう。受験勉強で一点の差で勝者と敗者がいても、敗者にとっては勝者が特別に見えてしまうだろう。似たようなスケールでも、もっと大きなスケールでもそれは起きる。 ジョブズだってアイフォンを買えないような戦渦の中の人間からしたら、特別でもなんでもない。
ただし、誰かの特別には誰だってなれる。その誰かが分からないところが世の中厳しいところだけれども、それでも、なれるのだ。凡人が大半を占めるこの世の中で、特別になれる。すごいことじゃないか。努力して、誰かの特別になろうとすること。それを恋という言葉で片付けるには、非常に忍びないけれど、肉体と精神と道徳と約束とが全て許される特別になれるのは、やはり恋人なのだろうから恋とでもしておこう。恋であり愛なのだ。
残念ながら、恋はいつまでも続くという思い上がりが恋を終わらせる。変わらないものなんてなくて、愛もそのうち変わっていく。だから乗り換えられないように、努力しなくてはいけない。それを怠った僕は、痛い目を見た。もうそのことは絶対に忘れないと、我ながら今回、誓う羽目となった。
誰かの特別になる気がないなら、関係を軽々と言葉にしちゃいけない。たとえそれが曖昧な言葉で濁すという残酷さを孕んでいようとも、言葉にしてはならない。親友という言葉も、恩人という言葉も、恋人という言葉も、ましてや家族という言葉を使うべきではない。関係が、言葉が先に立つから壊れる。親友ならこうであらなければならない、恩人なら、恋人なら。家族なら。それはもはや、特別になる気を失っていて、義務を誰かに強いている。気持ちじゃない。
今一度問いかけなおす。僕は誰かの特別になろうとしたか。それに対するだけの行動をしたか。特別だと思ってくれる、相手が望む行動をとろうとしたか。それは面倒かもしれない、重すぎるのかもしれない。けれど、言葉と現実のギャップに悩まされるくらいなら、僕は友達で構わないし、恩だってきてやるし、友達以上恋人未満でもいてやる、仮族でもいてやる。面倒だと思ったのなら、過大評価された関係なのだろう。重いと思ったら、それは自身にその重さを背負えるだけの力が無いか、やる気がないだけだろう。
なら、その人の特別になろうという気が自身に無ければ、それでいい。無理に親友にも恩人にも恋人にも家族にもなる必要は無い。だからと言って、終わらせる必要もない。僕たちは出会えたことで、またこれからも共に歩みを進めていくことで、物語は進んでいくのだから。
特別でないことは無駄じゃない。特別しかいらないなら、より"幸せになろうとしないことは卑怯"なのだと言われてるような気がする。勇気をもって、より幸せを探るべきなのだ。
長々と書いてきたけれど、これが終物語(中)を呼んだ気分、ということにしておこう。
多分途中で飽きてここまで見てはいないだろうけれど、見てくれた人にありがとうございます。
そして、僕の自問自答も思ったことも、自分に起こった場合と考えて頂ければ、僕は書いた甲斐があったというものです。
少なくとも、こういう人間がいるんだなぁというサンプルくらいになれたら幸いです。
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