2014年3月28日金曜日

キキイッパツ

 午前8時。通勤や通学で街はまだ少しざわついている。ママチャリに乗った高校生が横をすり抜けていく。1人、2人。抜き去っていくたび風が起こる。やや間をおいて1人以上。強めの風が吹いた。自転車に一人以上?
 「二人乗りだ!」
僕は心の内で叫んだ。二人乗りの速度は遅いにも関わらず、空気の動きは並みの速度のそれと同等かそれ以上に感じる。空気抵抗というものなのだろう。ブワッという風が吹き、二人乗りの自転車は僕の横を過ぎて行く。あまり真面目そうじゃない男の子が若干の蟹股で必死にペダルを回している。後ろでは女の子がスカートをはためかせながら横向きに座っている。右手と左手で緩く男の子にしがみつき、その表情は無表情より少しは表情のある涼しげな顔だった。それを見て、心の中で悪態をつく。捕まってしまえ、という子供じみた嫉妬心と共に、お尻が痛くないのだろうかという疑問が湧いてくる。あと、ちょっと羨ましい気持ちもある。ちょっとだけれど。無論だ。否定はしない。
 
 しかし、僕には今彼女がいる。そして今、その彼女の家に向かっている。今日はデートなのだ。だから僕は負け犬じゃない。負け惜しみでもなんでもないのだ。
 先日、のんびりしようということで、彼女の家の近くの公園に行く予定を立てた。その時、「近いからうちに一度寄っていってよ」っとちょっと恥ずかしそうに言うものだから、僕はそこに向かっているのだ。行かないわけにはいかない。
 尚、集合時間は9時。つまり、1時間早くついてしまった。初めて彼女の家に遊びに行くものだから、道に迷わないように、且つ時間に余裕を以て行動しようと6時半に家を出たのだ。そこから電車で45分、無事についた。つまり、というかなんというか、早くつきすぎたのだ。
 ちなみに、「残念」ながら彼女は一人暮らしである。そんな彼女の部屋に行って、(おそらく)少しお茶を飲んでゆっくりして、ちょっとおしゃべりして。それでなんとなく、なんとなくだけれど、そういう雰囲気になってしまう可能性もなくはない。限りなく0に近くとも、ゼロじゃない。魔が刺す可能性だってある。付き合い始めて3か月、何せそういうことは今までにない。気づけば数時間過ぎて、そんな事をしても問題ないような時間にだってなるかもしれない。勿論、何もする気はない。それはないけれど、やっぱり独り暮らしの女の子の家に行くなど恥ずかしいじゃないか。つまるところ、僕は緊張していた。後々回想し白状すると、ほんの少しやましい気持ちもあった。恥ずかしい限りである。そういった邪な心が後の悲惨な結果を生むのだ。
 そういった緊張のせいか、やや速足で歩いてると案外あっさりついてしまった。念のため、スマートフォンで住所と地図を確認する。間違いなく彼女のマンション、4階建て。小豆色のような煉瓦色のような少し古いマンションである。各階には3部屋ずつ、つまり12部屋。その割には面積があるようで、一部屋は広そうだ。エントランスのような場所はあるが、オートロックは無い。少し、心配である。管理人室のようなところに灯りが灯っており、人がいる様子はあるものの顔を出しているのでもない。益々心配である。しかも彼女は一階だ。益々益々心配である。僕はそのことを聞いたとき、なんで一階なんかに住むのか聞いてみた。防犯上でもよくないし、家賃の面でもよくはない。すると彼女は「便利なんだもん、1階じゃなきゃいやなの」と言っていた。そりゃ便利だけれど、やはり心配なのだ。
 とりあえず、彼女の部屋の前についた。表札には「佐藤 健太」と書かれている。彼女の苗字プラス、男の名。しかし、僕はあわてない。なんでも、これは番犬がわりなのだと聞いている。「男がいるっぽい方がストーカーも寄らないでしょ?」と言うのが理由らしい。本当にやっていると思わず、ちょっとひいた。それでも、いざ表札にそう書いてあるのを見ると複雑な気持ちである。ちなみに僕の名前は健太じゃない。ワックスで髪をツンツンにした健太なる人物を空想し、まさかドアを開けたらいるんじゃないかと勘ぐってしまう。益々、益々、不安になってくる。彼女はちょっと男心を軽く見ている。せめて僕の名前にしてくれと、後で打診してみよう。いや、待て、そんなことしたら重い男だと思われるんじゃないか?
 そんな問答を玄関の前で繰り返していると、人の視線を感じた。左を向くと、犬の散歩帰りの妙齢の婦人と目があった。訝しそうにこちらを見ている。凝視、という言葉が相応しい視線が刺さる。気まずい。これじゃまるで僕がストーカーみたいじゃないか。幸い、不審者のような格好はしていないが、居心地が悪くなってきた。婦人にひきつった笑みと会釈を与えると、夫人は真顔で首だけ下げるような会釈を返すと、婦人はエレベーターへ消えて行った。
 踏ん切りの付いた僕はインターホンを押す。心臓の鼓動はいつもより速い。心拍数でいえば110くらいか。ドクン、ドクン、ドクン・・・。そんな鼓動を10回くらい感じた後で、反応が無いことに気づく。気づくというか、拍子抜けを食らったような感覚だ。思わず口から「ん?」という言葉が漏れ、不思議に思いながらももう一度押す。さっきより鼓動は落ち着いている。心拍数で言えば90ちょい?しかし、反応はない。そんなはずはないと思いながらも、もう一度押してみたが、やはり。まさか、健太がいそいそと隠れてるんじゃ。まさか、変な男が入り込んでるんじゃ。妙な不安が襲う。もう一度呼び鈴を鳴らしても効果はないだろうと、ノックをするためにコブシを握る。
 その刹那、やや左後ろから音がした。さっきの婦人かと一瞬警戒して目をやると、杖を突いたおじいさんがゆっくりとエレベーターから出てきた。餅つきと同じようなスピードで一歩ずつ歩いている。しかし、ゆっくり歩きながら老人も僕に目線を送っている気がした。またも気まずい。一度コブシを解いた。ノックというのはちょっと荒々しいと感じがあり、僕はあまり好ましく思ってない。だから、憚られたのだ(ただし、トイレは除く)。そして、老人が過ぎ去るのを待った。しかし、なにぶん、老人の動きが遅いものだからじれったい。いーち、にーい、さーん・・・と数えるように歩いている。しかも僕の方に。僕の右手にも出口があり、そちらへ向かっているようだ。しかし、視線はこちらに注がれている。何もせず立っているだけの怪しい男が、若い女性の部屋の前にいる。そのことに気付くと、視線に耐えられない。呼び鈴もノックもという、万策も無いけれど二策が尽きたところで、一か八か、この家の関係者を装ってドアノブを回してみた。スマートに、平然と、あたかも「ただいま」というように。
 
 果たして、ドアノブはなんと廻った。カチャっと音を立てて回ったのだ。カギはかかっていないようだ。不用心にもほどがある。呆れると同時に、心配が募る。老人のことなんか頭からすっ飛んだ。健太がいるから安心しているのか・・・。それとも、今まさに不審者に襲われているのか・・・。不穏な状況に僕はあらぬ想像を膨らませながら、手首をひねったまま小休止。ふぅ、と息を吐く。意を決して、僕は開けることにした。ゆっくりと、一歩後ろに下がり、ドアを引く。1人がなんとか入れるだけ扉を開き、隙間から肩を入れて中に入る。気付かれないように、音を立てないよう、ゆっくりと。僕は細心の注意を払いながら、家に侵入した。玄関の上に立ち足元を見る。靴は二足。女物だ。とりあえず、健太の疑いは消えた。女友達でも来ているのか。それとも土足で彼女の部屋にあがり、彼女に危害を加えているのか。暴れるような物音や悲鳴は聞こえないが、物音がする。ゴウンゴウンという音だ。何かが摩擦しているようにも聞こえる。やや甲高い駆動音のようなものまで。ウイーーーーーンという音。電動歯ブラシでもない。変なものでもない。工場とかで聞こえそうな音だ。聞き覚えはある、なんだか思い出せない。不穏な空気が漂う。
 微かになったガチャンという音に肩を窄める。ドアレバーから手を離し、ゆっくりと回れ右。床に並んでいるやや高めのヒールを倒さないよう、のっそりと。正面を向くと、室内は至って普通の2DKだった。玄関入ってすぐにキッチン。綺麗である。コップが一つ、シンクの上に載っている。ゴキブリなどが湧くような家に住んでいなくてちょっと安心する。右側には浴室。シャワーの音はしない、いる様子もない。そして、正面には引き戸が二枚。左側の戸は洋間のようで、開け放たれているがそこにいる様子はない。玄関からはテレビと白い箪笥だけしか見えない。対して右側の戸。中は見えないが握りこぶし一つ分だけ開いている。どうやら和室のようだ。駆動音はそちらからするようだ。彼女の「ハァ、ハァ」という荒い息も聞こえてきた。とても苦しそうだ。
 ちょっとドキドキしてきた。勿論、いい意味ではない。ヨクナイ事態への緊張だ。健太が用意周到に靴を隠しているのかもしれない、という健太の疑惑が再浮上した。または、変質者が彼女を襲っているのか。どちらにせよ、僕にはこの不可解な状況でその二つしか浮かばなかった。そして、間違いないのは彼女が苦しんでるということ。何せ、インターホンで反応が無いのだ。しかも、僕が来ると分かっている日に。反応できないような目にあわされているか、居留守をつかわれているかである。心配せずにいられるだろうか。機械のような音は、聞いたことあるような気もするが想像はできない。むしろ、それが不気味さを助長させている。家ではまずならないような音だからだ。募りに募った不安と恐怖、ちょっとした背徳感を覚えながら、僕は3歩、抜き足差し足で進んだ。
 ここまで冷静にいられるのは、彼女が心配だからである。部屋の中で事に及んでいるのがどちらにせよ、逃げる隙を作ってなるものか。苦しむ声が聞こえているならば、事態を未然には防げなかったということだ。ならば、確実に健太にしろ変質者にしろ、捕まえる。腕に自信は無いけれど、不意をつければ有利な状況になるだろう。そのためにも冷静でいなければならない。何度も「落ち着け」と自身に言い聞かせた。絶対に助ける。または問い詰める。
 隙間から見えないように戸の後ろへしゃがみこむ。アクション映画の刑事さながら身を乗り出し、僅かに開いた戸から部屋を覗き込んだ。
 40mm近いディープリムを装備したロードバイクの上でもがき、苦しむ彼女がそこにいた。タイムトライアルマシン、しかもサーヴェロ。定価数十万のフレームである。顔を伏せながらクランクを高回転させている。轟音を上げるローラー台。耳にはヘッドホン。僕がその姿を視認した瞬間、彼女も顔をあげた。わずかな隙間から僕の目を見つけた。目があった。見つけてしまった。苦しみの表情が一瞬にして消える。半開きになった口。足は止まり、ラチェットの音が鳴り始める。リムの表面にZippの文字が浮かびあがる。
 その姿を見て、僕の記憶の古傷がうずきだした。初デートの日。自転車で行こうという僕の誘いに彼女は喜んだ。当日、集合してみると僕はジーンズとポロシャツ。彼女はレーパン、ジャージ。
 「そんなに速くないよ!」
とバタバタと手を振って照れ隠しをした彼女。そして、
 「ゆっくり行こうね」
とハートマークさえつきそうなトーンで、伏し目がちに告げて僕の男心を刺激した彼女は30分後、
平然と35km/hで巡航した。
ボトルも足も切れて、彼女にも千切られた、あの苦い思い出がよみがえった。
 

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