2014年3月2日日曜日
終物語(中)
特別とは何かを考えるお話。本当に特別は何なんでしょうというのが私の気分ですが。
今回は不幸の成り立ちから考えます。ですから、不幸な人と、不幸な人の気持ちを知りたい人は見て頂けると幸いです。自分は幸せで、不幸になんか触れたくもない、という方は見なくていいです。なお、なるだけ、作品を見たことない人にも分かるように書いたつもりですが、そりゃ経験が違いますがご容赦を。
さて、私はどこまで行っても、この物語シリーズは不幸との対峙だと思っています。不幸というよりは、遣る瀬無いこと、とでも言いますか。
「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」
ほぼ最後に出てくる一文に、ハッとした。
僕は正直、人の不幸を知らない。自分の持ってる不幸しか知らないのだ。勿論、想像することはできるけど、やはりそれは伝えてくれないと分からないものだし、そう頼ってきてくれる人も別段いたわけじゃないから、やはり知らないのだ。些細なことで不幸を感じる人もいるだろうし、全く表に出さない人もいるだろう。まぁ、それが普通なのかもしれない。
けれど、人を信用できなくなると、耳の中に理想論のような「普通」しか入ってこないから、やはり僕は不幸なのだと思わざるを得なくなってしまう。
「平等であるべきだと思うものについて、人は嫉妬を覚えるけれど、其々で良いと思えるものについては、人は羨望を覚える」という風に思っている。多くの場合、不幸は嫉妬から生まれるの。
この世界は、メディアや何から何まで、普通を描いていて、普通じゃないものは敬遠される世界だ。少なくとも、人格形成を決めるような小中(高)までは。大抵の場合は、自分の境遇と他人の境遇を比べて、優劣をつけて、自分が不幸だと知った時、誰かに嫉妬する。自分が不幸だという現実を突き付けれられて、なんで自分はそうじゃないんだって社会や他人に嫉妬するのが不幸の始まりなのだと思う。別に他人なんてどうでもいいと思えば、本当にどうでもよくなる。
ある作曲家が
「嫉妬と保身と自己嫌悪。この複雑に関係する三つの病を治さないことには、幸せはやってこない。」
と仰っててひどく納得したものだ。
で、この不幸の悪循環が何故起きるかというのを個人的な経験に基づいて、かつ、斧乃木ちゃんのセリフを拝借してしまうと、それに尽きてしまうのだ。集約されてしまう。。
「(言い訳のようにも聞こえるけれどね。)幸せにならないから勘弁してください、幸せになろうとなんかしないから、どうか許してください、どうか見逃してくださいと言っているようにも。僕たちはこんなに不幸なんだから責めるなよ可哀想だろって主張しているようにも。ねぇ、鬼いちゃん、ひょっとしてあなた、不幸や不遇に甘んじていることを『頑張ってる』と思っちゃってるんじゃないの。」
と斧乃木余接は語る。不幸の免罪符。簡単なイメージでもしかしたら、キリストがその身に罪を背負って…云々みたいなイメージを持ってしまうのかもしれない。僕が不幸だから幸せになれる。僕は不幸だから幸せになれるはずがない。僕は。僕は、僕は。世界中の不幸を自分が独占していて、他の皆は全て幸せで、全て敵で。敵である。僕が幸せになれない理由である。そのうち、僕のおかげで君たちは幸せでいられるんだとも思ってしまうかもしれない。そういう可能性だってある。
傲りが出てきた。自己否定を怠ると、不幸の根源に対処しようとして殺人衝動が出てきてしまう。どんなに人の形をしていても、それは不幸の「源泉」でしかないのだから。無差別殺人犯にとっても事情は大して変わらないと思う。僕以外は幸せだから、僕の幸せ成分を獲っているから、僕は幸せになれないんだ。そう思うのかもしれない。
そんな、殺人衝動に気づいた時、それがマズイと思ったら多分人を殺しはしないでしょう。けれど、そこですることは自己否定、自己卑下なのだ。僕「なんか」が彼らを殺していいはずない。僕「なんか」じゃ人を殺せない。僕「なんか」が幸せを求めようとしたこと自体が間違いなのだ。
そうして、堕ちるところまで堕ちて、帰ってこれなくなるとその理由づけに保身が始まる。それが不幸の免罪符。不幸に耐えてればいつかいい事ある。必死に不幸に耐えることだって・・・
何もならないのだ。何にもならない。斧乃木ちゃんは言う。
「そういうのを世間では『何もしていない』って言うんだよ。普段の怠けだ。不幸なくらいで許されると思うな。終わったくらいでリタイヤせずに、ハッピーエンドを目指すべきだ。」
「不幸でい続けることは怠慢だし、幸せになろうとしないことは卑怯だよ」
卑怯。卑しく怯える。心が貧しく、怯えている。勇気が無く、物事に正面から取り組もうとしないこと。それを狡い、という人もいるかもしれないが、これは欠陥なのだ。そう、不幸から逸脱するためには勇気が必要だった。裏切られても耐えられる勇気、何かの為に何かを見捨てる勇気、変態の汚名を受ける勇気。勇気を以て前に進み、人生を、物語を進めなくてはならないのだ。待っていることは解決にはならない、後回しになるだけだ。前には進まない。待ちくたびれた時にはもう遅くて、帰る場所は風化して、他の誰かはそれぞれ前に進んでいる。置いてかれていく。待ち合わせなどしてもいない未来から、置いてかれて、老いて枯れる。
ここまでが僕の考える不幸の話。そしてここからが神原駿河という少女の話と、終物語の話。
ここまでで見飽きたら、一度戻りましょう。そして、おかえりと僕は言えたらと思います。
以下続きます。
さて、その一方で、神原駿河はどこまでも愚直だ。優しいなんて生易しい言葉では言い尽くせない。僕と神原が明らかに違うのは、枝分かれする根底には、彼女には勇気があるということだ。その勇気で真っ直ぐに向かってくる。自分が痛みを知ると分かってても、進まない人を見過ごさない。愛の反対が無関心という言葉に抗うかのように、同調するほどの重すぎる愛とでもいうのだろうか。戦場ヶ原さえも後ずさりしたほどの、重すぎる愛。卑怯とは程遠いその行動力、それが神原を神原足らしめている。人を傷つけない為に本当の努力をした人間である彼女は、独り善がりでない人の救い方を知っていた。それが勇気だった。勇者だった。選ばれしもの。ケムコとは関係ないけれど、それこそが才能なのだろう。
当然、神原も人を選ぶのだろう。鉄砲水のように変態の極致ともいえるような性癖を曝け出しながら話しかけてくるのは阿良々木君に対してだけらしいし。花物語で見る彼女が全く別人だったように、変態で形容される神原駿河というのはアララギ君と----おそらく戦場ヶ原に対してだけなのだろう。
そうできる理由を考える。投げっぱなしの信用。僕は、それが神原とアララギ君を繋げていると思う。二人を繋ぐのは愛ではない、なんとなくだが何となく感じることだ。恋愛感情に発展しない関係。男と女の友情。そういうものが見て取れる。多分に神原が男っぽい、というより女子女子しくないということもあるのだろうが、それよりも二人は殺し合ったほどの仲だ。そして、戦場ヶ原に選ばれる才能というものを持った阿良々木君は、神原にとっては否が応でも認めなければ相手なのであって、強者である義務、Noblesse Obligeを知っている彼女はどうしようもなく、彼に従わざるを得ないのではないかと思うのだ。多くのものを勝ち取ってきた神原でも勝てないのだ。ナンバーワンがオンリーワンを意味するように、報酬は勝者にしか与えられない。戦場ヶ原の特別は、少なくとも現段階では阿良々木君ただ一人なのだ。
代替のきかない存在。特別であること。僕は僕以外の何物にもなれず、かといって誰かが僕に成り代われる物でもない。特別であるための物語。永くなったが、やはりこの物語はここに執着し、終着する。
初代怪異殺しと忍の物語であるが、今の神原と戦場ヶ原の焼写しの物語であると言っても良いのかもしれない。「二番手の気持ち。」それを知っている神原であるからこそ、忍と対峙した。今でこそ神原は救われているのかもしれないが、救われなかったときの気持ちを考えると、他人事とは思えないのじゃないだろうか。見るに堪えかねた、という風に。
そして、初代怪異殺しと阿良々木君が向き合った時の言葉だ。
「お前は特別で、選ばれた人間なのかもしれない。僕は特別じゃないし、選ばれてないかもしれない。お前の代わりは誰にもできなくても、僕の代わりは誰にもできるのかもしれない。だけどな。」
「お前は僕にはなれないよ。僕の代わりはいくらでもいるけれど、僕は僕しかいないから。」
「お前は僕じゃないように、僕はお前じゃない。そういうことだろう?」
忍の現段階の特別である阿良々木君は、二番手の初代怪異殺しにそういった。
その前に戦場ヶ原に電話をかけて、こういわれた
「絶対的な絆なんて結構怖いしね-----だから乗り換えられないよう。努力しなさいという話でしょう。特別な人間にはなれなくとも、誰かの特別にはなれるでしょ」
「私は神原や阿良々木くんにとって特別な人間であろうと絶え間なく努力している------安心しなさい、阿良々木くん。あなたは十分、特別な人間よ。私にとっても、神原にとっても------忍ちゃんにとっても。私たちはあなたを選んでいる」
阿良々木君が、初代怪異殺しに対して毅然と「僕は僕しかいないから」と言えたのは、その言葉があってこそだろう。少なくとも、今は、特別であることを実感できる。それが彼を前へと進める。そういってくれる彼女らを信じて、彼は前を向いていられる。
特別なんてものは存在しない。主観の集合である一般的な特別には、誰一人もなれず、誰もがなれてしまう。受験勉強で一点の差で勝者と敗者がいても、敗者にとっては勝者が特別に見えてしまうだろう。似たようなスケールでも、もっと大きなスケールでもそれは起きる。 ジョブズだってアイフォンを買えないような戦渦の中の人間からしたら、特別でもなんでもない。
ただし、誰かの特別には誰だってなれる。その誰かが分からないところが世の中厳しいところだけれども、それでも、なれるのだ。凡人が大半を占めるこの世の中で、特別になれる。すごいことじゃないか。努力して、誰かの特別になろうとすること。それを恋という言葉で片付けるには、非常に忍びないけれど、肉体と精神と道徳と約束とが全て許される特別になれるのは、やはり恋人なのだろうから恋とでもしておこう。恋であり愛なのだ。
残念ながら、恋はいつまでも続くという思い上がりが恋を終わらせる。変わらないものなんてなくて、愛もそのうち変わっていく。だから乗り換えられないように、努力しなくてはいけない。それを怠った僕は、痛い目を見た。もうそのことは絶対に忘れないと、我ながら今回、誓う羽目となった。
誰かの特別になる気がないなら、関係を軽々と言葉にしちゃいけない。たとえそれが曖昧な言葉で濁すという残酷さを孕んでいようとも、言葉にしてはならない。親友という言葉も、恩人という言葉も、恋人という言葉も、ましてや家族という言葉を使うべきではない。関係が、言葉が先に立つから壊れる。親友ならこうであらなければならない、恩人なら、恋人なら。家族なら。それはもはや、特別になる気を失っていて、義務を誰かに強いている。気持ちじゃない。
今一度問いかけなおす。僕は誰かの特別になろうとしたか。それに対するだけの行動をしたか。特別だと思ってくれる、相手が望む行動をとろうとしたか。それは面倒かもしれない、重すぎるのかもしれない。けれど、言葉と現実のギャップに悩まされるくらいなら、僕は友達で構わないし、恩だってきてやるし、友達以上恋人未満でもいてやる、仮族でもいてやる。面倒だと思ったのなら、過大評価された関係なのだろう。重いと思ったら、それは自身にその重さを背負えるだけの力が無いか、やる気がないだけだろう。
なら、その人の特別になろうという気が自身に無ければ、それでいい。無理に親友にも恩人にも恋人にも家族にもなる必要は無い。だからと言って、終わらせる必要もない。僕たちは出会えたことで、またこれからも共に歩みを進めていくことで、物語は進んでいくのだから。
特別でないことは無駄じゃない。特別しかいらないなら、より"幸せになろうとしないことは卑怯"なのだと言われてるような気がする。勇気をもって、より幸せを探るべきなのだ。
長々と書いてきたけれど、これが終物語(中)を呼んだ気分、ということにしておこう。
多分途中で飽きてここまで見てはいないだろうけれど、見てくれた人にありがとうございます。
そして、僕の自問自答も思ったことも、自分に起こった場合と考えて頂ければ、僕は書いた甲斐があったというものです。
少なくとも、こういう人間がいるんだなぁというサンプルくらいになれたら幸いです。
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