2014年3月29日土曜日

キキイッパツその2


こんなことがあったわけで、今に至る。
 私は茫然自失とした。目の前の現実に、対応できなかった。いるはずの無い人がいて、しかも、私のガチッぷりに間違いなくドン引きしてる。足の力はみるみる抜けていく。ヘッドホンから流れる"Sometimes"も、何の疾走感もない。本編ではなく、メイキングの転倒だらけの光景が脳内再生される。呼吸と驚愕の為に開いた口から涎が出そうになり、目を彼から離すことが出来ない。どうみても唖然とした彼の顔が、私のすり減った意識の中に流れ込んでくる。
 初デートの時も、口では「余裕だ」なんて言ってたけど、死にそうな顔してたのを私は忘れない。ちょっと速すぎたかな、と反省した。今度はもう会ってくれないんじゃないかなって思ったけど、会ってくれた。もうガチッぷりは見せない。あの日はクロモリの練習用で行ったからまだ良かったけど、他だったら・・・。借り物だけどフラグシップが部屋にあるとかも絶対見せられない。だから今日も、こっちの部屋はカギかけようって決めたのに。
 『ていうかなんでいるのよ!まだ8時よ!九時に来てって言ったじゃん!しかも勝手に家の中に入るとか信じられない!』
 息も絶え絶えの私は、ラストスプリントの如く啖呵を切った、となればよかったのだけれど、それどころじゃなかった。というか、私はそんな風に言えない。追い込みで最早ゴール後の状態。そんな元気はないし、キャラじゃない。とりあえず、バイクから降りる。この間、何も言わない。傷つけないようにスタンドにかけて、壁を背もたれに、床に座り込む。
 とりあえず、ダウンとかそういう問題じゃない。今、なんとかせねば。この状況を打破するのに最も有効な言葉を考える。しかし、脳の血管全てが引き締まるような気がして、考えるどころじゃない。それでも考える。そして、気まずい沈黙を破ったのは私の言葉だった。
 「休憩させて」
何とか絞り出した言葉だった。
 無言のまま、10分ぐらい過ぎただろうか。私も彼も、何も言い出せない。未だに顔が熱い。いつもなら、もう少し熱気が引いてると思うのだけれど、熱い。言うまでもなく、恥ずかしいからだと思う。女の子が汗だくというのも恥ずかしいが、鬼の形相でもがいているというのが恥ずかしい。というか、いきなりこの姿はインパクトがデカすぎる。おしまいだ。おしまいだ。絶対フラれる。まだ思考は疲れが優先されているし、そもそもなんでこんな時間に彼が、しかも勝手に部屋に入っているのかが分からないので、そこまで真剣に悩んだわけじゃないけれども、ちょっと悲しくなった。熱い。汗酷い。もういやだ。汗フェチだったりしないのかな。わずかな希望を頭に描いた。
 彼の方を見ると正座をしている。なぜ正座。よくわからないけれど、何かを反省しているようにみえる。それともただのクセか。しかし、その目はどう考えても機材に向いている。明らかに完成車じゃない私のヴェロちゃんを眺めている。そして、私と目があった。彼は一瞬目を反らす。けれど、もう一回ヴェロちゃんの方に向いてから戻ってきた。そして、少し前のめりになりながら、内緒話でもする風に言うのだった。
 「貧脚でごめんね」
 とても言いづらそうにそう言い放った。前に付き合っていた男の子も(もっと棘のあるような言い方だったけど)そんなようなことを言って、その後、雰囲気が悪くなって別れたのだった。その時は箱根デートだった。汗と苦悶の箱根デート。文字通り甘酸っぱいデートだった。(主に汗)。元彼は自転車部だったらしく、その箱根で私が彼を千切って以来、関係がややギスギスし始めた。精神的に疎遠になり、会う回数もまばらになった。
 その後、ある公園でたまたま会った時には「あの時俺は自分の弱さに負けたのだ」と言い出した。「己の未熟さ故で、八つ当たりしてしまったんだよ。器の小さい人間だった」とも言っていた。そうして、コンビニで買ってきてくれたカップラーメンを共に食べ、和解して、別れた。今では極稀に練習に付き合わされる程度に会う。
 関係に陰りが出た後も私は彼を好きだったけれど、やっぱり彼の負けず嫌いは並々ならぬもので、デートの度に目を血走らせて、修羅の道にでも進みそうだった。毎回練習に行こうと言ってきた。だから、割り勘したカップラーメンを共に啜ったその時、別れることにした。正直、普通のデートもしたかったというのが一番の理由だったけれど。たまには普通の女の子らしくいたかった。ライバルよりも彼女でいたかった。
 だから、私は今、今の彼の言葉を聞いて、ネガティブな記憶がフラッシュバックした。とりあえず太ももをタオルで隠しながら、私は彼に尋ねてみた
 「ねぇ・・・引いた?」
彼はちょっと困ったように頭を掻きながら答える。
 「うん、まぁ正直にいえばね。」
ズキッというオノマトペが頭で流れる。
 「でも、僕もよくなかったよ。人の部屋に勝手に入ったんだし。」
イラッという擬音語が頭によぎる。
 「そうだよ、なんでかってに入ってきたの!ていうかどこから入ったの!?」
先制アタック。
 「鍵、開いてたから…。」
あっ、と思わず声が漏れた。早々に足が切れたような気分。
 「あとそれと、だから心配で…。」
えっ、と不思議に思った。プロトンが見えてきた。
 「3回だけど、インターホン押しても出ないし…。」
空耳じゃなかったようだ。彼の言葉に飲み込まれそうになる。
 「呻き声みたいなものも聞こえたし…。」
恥ずかしい。あぁ、もう吸収された。
 「あと、寝顔も見たかった。」
これは嘘くさい。けれど、それに近い何かがあるのだと思う。
  「マンションで女の子独り暮らし。オートロックなし、カギもかかってない。しかも一階なんだよ…?付き合い始めて間もないとはいえ、むしろ・・・だからこそ、すごく心配になって…」
 どんどん小さくなっていく彼を見て、まずかったな、とほんの少しだけ思った。そんなにヤワじゃないけれど。私も私で心配かけたのだ。それでもオーバーな心配ぷりだが、付き合い始めて3か月などテンションのまだ高い時期だ。ちょっと敏感なのかもしれない。
 とにかく、カギの開けっ放しは迂闊だった。朝、7時に起きて牛乳が無いことに気づいて買いに行ったときに違いない。家から5分もないところにあるけれど、朝練の時間を短くできないと思い、急いでミニスーパーへ行き、急いで練習の支度したんだった。そして何より、いつもより起きるのが30分遅いのが諸悪の根源だ。昨日深夜アニメなど見るから寝坊したのだ…。今日はデート前にある程度疲れておいて、ちょっと甘えるモードでとか考えていたのに…。と、ほんの少し納得いかないところもあるけれど、プチ反省会を心の中で開催。心配してくれたというのは悪い気がしないし、何よりそういうところは実直な彼だ。時折みせる、思春期の好奇心のようなスケベ心以外は良い人なのだ。カーゴバイクに子供を乗せて買い物に行きたい、などと語る彼にはパートナーとしての魅力があった。だから私は彼を選んだ。
 「怒ってる…?」
 裏で黙々と反省会をしていた空気に耐えられなくなってか、それとも私が怒っているように見えたのか。彼はそんな風におずおずと聞いてくるのだった。
 「怒ってないよ。」
 ちょっとそっけない言い方になってしまった、が本心だった。とりあえずお風呂に入りたい。私は隣の洋間で待ってるように促した。
 汗だくの上下インナーウェアを脱ぎ、浴室に入る。蛇口をひねれば冷たい水が降り注ぐ。初夏の今、しかも発熱した体には心地よい冷たさだ。ベトベトした汗は私の身体を這い落ちて、代わりに温もりを持った水が私を包み込む。裸だけれど、何か新しい服に袖を通すような気分。運動後の醍醐味。湯船があれば最高なのだけれど、朝から水を張ってるほど私はお金持ちじゃない。だいたい自転車につぎ込む。あと、最低限のお洒落。だからシャワーだけ。
 しかし、冷静に考えてみれば、恥ずかしい状況だ。こんな私でも、普段は清楚系で通しているうら若き乙女である。しかし、そんな乙女がTTマシンに乗って汗を滴らせ、鬼気迫る顔で叫んでいた。そして、その現場を付き合ってそんなに間もない彼に見られた。死にたいくらい恥ずかしい。多分、叫んでたと思う。いや、絶対。ウォォォとかドス黒い声を出してたんじゃないか、考えただけで恥ずかしくなる。
 けれど、それよりももっと、私に妙な緊張感を与えるのは今の状況だ。私の家に二人きりでいて、なおかつ私は今シャワーを浴びていて、彼は部屋で待っているというこの状況。そんな予定でもないのに、なんだかそんな気分にでもなりそうだ。多分、彼の事だから少しは緊張していると思う。むしろかなり。あの中学生じみた初心さを持った彼だ、多分まだ正座している。その想像がむしろ私を緊張させる。彼もそうだと思うが、まだそんな気ではない。キスはしたけれど、本当にオヤスミのキス程度のものだった。でも、少なくともそれで私は満足した。彼も満足だと言ってくれた。体中の力が抜けるとまではいかないけれど、耳たぶが熱くなって、踵がむず痒くなる様な、そんな彼との最初のキスだった。東京ポタリングの後だった。
 とりあえず、今回のことは彼は私を心配してくれての行動だったわけだ。それを茶化しはするかもしれないけれど、責めるほど私は失礼でもない。それに、「正直言えば」という言い方。ドン引きよりも、心配が勝ってくれたのだろうと思う。そう思いたい。そのことはまたあとで聞くとしよう。今日はまだまだ時間はある。
 そうしたらなんて聞き出そうか、と思った。そして、扉の向こうの向こうの向こう側にその彼がいると思うと、やはり心臓の鼓動が速くなるような気がする。緊張で定まらない視点が宙を泳ぐ。白い天井、乳白色の壁、シャワーヘッド。そして、自身の裸体が映る鏡に気が付き、固唾を呑んだ。意味もなく胸のあたりを両手で触ってみる。そこそこある方だと思う。僅かに頷く。今度は無駄に首をひねり、お尻の形をなぞってみる。良くも悪くも大きい。やや首をかしげる。そのまま無意識に、太ももに両手をあてる。間違いなく太い。目頭を水滴が伝う。
 私は映画のワンシーンのごとく、風呂場の壁に手をついてみる。心を落ち着かせてみる。上からシャワーが降り注ぎ、ずぶ濡れになりながら沈思黙考。よくありがちなサービスシーンを演じてみる。それで、気恥ずかしさが紛れたかというと、勿論答えはNoだ。打開策は見つからない。我ながら馬鹿馬鹿しさに呆れ、シャワーを止める。わざとらしくガラッと音を立て、タオルをとる。タオルを叩くように肌にあて、水気をとっていく。手を伸ばしてあると思われた下着を取る。あると思われた、下着である。
「え…。」
ということはつまり、そこに下着は無かった。あまりに急いで、用意し損ねた。
 本日二度目の失態。もう、勘弁して。
  

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